“The Palestinian Question, the couple of Symptom/Fetish, Islamo-Fascism, Christo-Fascism, mieux vaut un desastre qu`un desetre”
Slavoj Zizek


ある方に「読め」と言われ、手渡されたスラヴォイ・ジジェクのペーパー。こちらと重なる論旨もある。今年(2009)春にパキスタンパレスチナで起きた出来事も引かれているので、最近書かれたものと思われる(lacanian inc.からのDLか)。
冒頭で書かれていることは古典的マルクス主義では何度も述べられてきたもので、目新しいものは、とくにない。
半ばあたりからは、ベンヤミンの「ファシズムとは革命の失敗の指標である(ファシズムは左翼の失敗にとっ替わったものである)」という謂いが通奏低音のように、繰り返されていく。もっとも、レーニン主義の「党」として始まったアルカイーダがイスラム原理主義の武闘組織になっていったという例などは、フランス革命後のジャコバンにまで遡行できるだろうし、1920-30年代初頭のドイツ共産党とナチの関係も、これまでも様々なところで議論されてきたものである。
パレスチナ関連の発言への批判、たとえばフランシス・フクヤマやベルナール・アンリ=レビらによる「イスラモ・ファシズム」という造語に対する批判や、ホルクハイマーの「リベラル・デモクラシーやその高貴な原理を(批判的に)語ることを欲しない者は、宗教原理主義についても語るべきではない」を引きながら、「リベラルはとっくに失効している」として、リベラルの欺瞞を批判する論理も、とくに新しいとは思えない。
このペーパーの肝は、「中東摩擦にもしも二つの秘密があるとしたら、どうだろう。世俗的なパレスチナ人とシオニズム原理主義者という、二つの秘密である。世俗言語で語るアラブ原理主義者と、神学的合理化に依拠するユダヤの世俗的西洋人である」という、一般的な臆見を転倒したあたりから始まる終章にあるだろうか。この終章はサイードと対称的な視点から(パレスチナを)よく見たものであるようにも見える。
「奇妙なことは、宗教観念にかくも神を持ちこんだのは世俗的なシオニズムであり、つまりある意味でイスラエルの本当の信者は、非・宗教的である」「(それゆえ)悲しむべきことに正統派ユダヤがいまや、ますます自らが実際、神を信仰していることを確信しているように見える、ということである」。「イデオロギー的なこの捩れによる逆説的な結果は、いまや自身への関係の極点に達する反ユダヤ主義の最終版に、我々は立ち会っているということである」。
著者によればナチによる反ユダヤ主義の特徴の一つは、ユダヤとは国家の外部にあるとすることであり、それゆえマダガスカルからパレスチナのどこかにユダヤ国民国家を造ればいい、という主張があったことであるという。逆説的なことにイスラエルには、これと重なるところがないわけではなかろう。そして「理性の公的活用」領域におけるユダヤの特権的位置は、まさに国家・権力から一歩身を引いたところにあるという。イスラエルの国家・権力から一歩身を引くユダヤ、あるいはユダヤにおけるユダヤユダヤのなかのユダヤ、彼らこそがスピノザの最良の後継者である。
という読みに反対するジャン=クロード・ミルナーの言説が、次に引かれる。「近代ヨーロッパにおけるユダヤ人の解放は、彼らをタルムードの研究から普遍的(科学的)探求へと向かわせた」(一神教的普遍性による知のユダヤの登場。さらにユダヤ系知識人のあいだにマルクス主義が浸透しているのはそれが「科学的」だからという)。「啓蒙主義はそれゆえ、ヨーロッパのユダヤ人に、その名、伝統、ルーツを無視しつつ、科学的知による普遍性のなかに自らの居場所を見出す機会を与えた。しかしながらこの夢は残酷なことにホロコーストとともに終わった」。「20世紀に起こったのは、ユダヤの名の回帰」である、という。
ここから1950年代と60年代の状況が一瞥される。
1950年代のサルトルと1968年(その最良の思想家はドゥルーズである)ののち、(ベニー・レビーらは)ユダヤの名への忠誠を選び、他はキリスト教的精神を選んだという。著者によれば、ミルナーの著作の核はこのあたりの分析にあるという。ミルナーはさらにマグリットによるだまし絵の比喩を用いつつ、ファシズムの真の敵は左翼などではなくユダヤ(つまりユダヤの名)であることを、プロレタリアート左翼は直視しようとしないと言う。
この先、著者は部分的にミルナーのこうした主張を認めつつも、ペーパーのタイトルにあるおそらくSymptom/Fetishを再度用いつつ、結語部分に向かってミルナーに批判をくわえていく。「この事実はしかし、何を意味するのか? 古典的マルクス主義の観点からこれは解釈できないのか、つまり「ユダヤ」という文字の反ユダヤ主義とは階級闘争の比喩的代用である、とは。階級闘争の消滅と反ユダヤ主義の(再)登場は、同じコインの両面である。というのも「ユダヤ」の文字にある反ユダヤ主義の現前は、階級闘争の不在という背景においてのみ理解可能だからである」。
ベンヤミンの言葉が最後に繰り返される。ベンヤミンへの、この信頼。


以上のような読解でよろしかったでしょうか。


それにしてもアメリカでは、ドゥルーズデリダジジェク・・・という流れになりつつあるのだろうか。

井上章一 『法隆寺への精神史』 弘文堂 1994


大雑把に言って法隆寺の柱の「エンタシス」と伽藍配置を主モチーフにしながら、学説がそれぞれの時代の「精神」のなかでいかに動いていったかを見た書、といったところでしょうか。展開はしかし、cultural / inter-cultural という軸で動いているように見えます。
ギリシア建築の円柱におけるエンタシスと法隆寺の柱の胴張を結びつける考えは明治時代、アーネスト・フランシス・フェノロサから始まった、という。4世紀のアレクサンダー大王東征によってヘレニズム(後期ギリシア文化)がガンダーラに達し、唐を経て6世紀以降、日本に到達し、法隆寺正倉院はその証しということに、いったんなったという。フェノロサのbrainchildから始まったこの説、ということになるのだろうか。
フェノロサはヘーゲリヤンにして」と言ったのはフェノロサの弟子である岡倉覚三だったが、「ヘーゲリヤン」である以上、審美的にはギリシア文化を高く評価していたはずである。おもしろいのはその岡倉が『東洋の理想』において、東洋史において肝心のガンダーラより西を完全に切っていたことである。本書ではこうしたことが20世紀初頭のインドの独立運動や、そうした思潮のなかで登場したアーネスト・ハベルらのインド固有美術論との関係という「精神史」から見られていく。
また岸田日出刀や太田博太郎といったモダニストになると、胴張も伽藍配置も、inter-culturalな側面がまったくなくなり、culturalな部分のみ強調されていったという。
一般的に見て歴史遺構を考えるばあい、「言葉」と「物」の一致が鍵ということになるのではなかろうか。この点で、本書に登場する伊東忠太の大同(雲崗石窟)の発見や、石田茂作による法隆寺境内の発掘から導かれる結論は、説得力のあるものとされる。伊東はこの発見によって、現存する法隆寺建築への影響が唐経由で天智期に来たものではなく、北魏経由で推古期に来たものであるという説を確かなものとし、また石田による法隆寺境内の発掘は、現存する法隆寺は創建時のものではなく、『古事記』にあるように焼失したのち再建されたものであり、かつ伽藍配置も創建時のものと異なり、四天王寺式から薬師寺式への変遷期を示しているという説を確かなものとした、と言える。
本書の趣旨から外れるかもしれないが、言葉だけならすべてbrainchildとして言える、ということになるだろうか。



法隆寺への精神史

法隆寺への精神史


京都、徳力みちたか氏(西本願寺絵所13代だそう)に版木等をいろいろ見せていただく。「伊藤若冲の現存する2枚の版木はミホ・ミュージアムに貸出中で残念ながらいま見られませんが、これはですね、角倉了以の書簡です」。
脈絡のない話になるが、「家庭教師で行ったごく普通の家にあった絵が伊東深水だった」という話をきかされたことがあり、国宝とか文化財とかなにがしかの工芸品がそこいらにある街では、まぁある。


三条通りが昔と変わったという話をきいて、歩く。ここはもともと町屋や戦前の近代建築が残っていて立地もいいという、観光資源としてのポテンシャルの高かったところである。欲を言えば週末くらい歩行者天国にしてもいいように見えるし、電線の地中化もむかしより安くでできますぜ、京都市景観・まちづくりセンターさん。
脈絡のない話になるが、今年から来年にかけて、着物を着て観光すれば各種料金が無料または割引になるという試みもきいた。


またも脈絡のない話かもしれないが、妙喜庵(臨済宗)待庵を拝観する。以下は個人的な印象。
こうした茶室はほんらい仮設的な建物なのか、壁や屋根の基本骨格を竹で編み、地面に敷いた束石に置かれただけである。強風で飛ばされそうにもかかわらず400年以上も存続してきたのは、妙喜庵という宿主に固定され、また周囲の樹木や生垣が防風しているからなのだろう。特徴的な連子窓の連子は、木舞壁の土をかきとった部分に露出している竹によるもので、そこから窺える壁厚はわずか3センチ程度という薄さである。開口四隅はクラック防止のためにアールをとっており、これは室内室壁のアールに対応もしている。その土壁は外面は平滑に仕上げながら内面は粗く仕上げるという、通常とは逆の操作がなされている。一連の開口は大きさ、比率、高さがすべて微妙にずらされており、その一つはわざわざ竹の柱型と重なるように配されるという計算ぶりである。柱型は内部の畳の長辺と短辺に対応してほぼ1対2のリズムを形成しているものの、これらもすべて微妙にずらされている。茶席の二畳台目はよく言われるが、全体としてみると平面形状は水屋から控え、茶席、床と、綺麗な比率をなしながら螺旋状に展開している。襖は廻縁も手掛もなくシンプルなデザインである。こうしたデザインやpicturesqueでrusticな構成がモダンであると評価されてきたのかもしれないが、自意識過剰なほどに操作的にも見える。まるでミケランジェロの作品のように。
たまたま行われていた青蓮院(天台宗)の青不動御開帳を拝観する。この寺院には伝・小堀遠州の庭園もあるが、遠州風庭園は夜間ライトアップをするといささかべたな観光地に見えなくもない。青い光はもしかしたら青不動にかけているのかもしれないが、昔の「あお」と現代の「青」は、同じ色であっただろうか。


そうだ、京都行こう、JR韜晦。

井上章一 『伊勢神宮 魅惑の日本建築』 講談社 2009




どうでもいい話であるが、個人的な話をさせていただくともう23年前の夏、京都大学建築系図書室の書庫の奥にある机で一日の大半を過ごしていたころのことである。その当時売り出し中だった井上章一氏がたまたま書庫に入ってきて調べものをして出て行こうとするところを後ろから、「あのう、もしかして井上先生ではありませんか。先生の本、ぜんぶ読みました」と不躾にも声をかけさせていただいたことがある。すかさず「それは有難うございます」と頭をお下げになったのには恐縮した。そのご「論文はキン(以下略)」とか「全国の学位論文を(以下略)」とか、京都人らしいブラックユーモアを語られていたと記憶する。
本書でかなり頁を割いて論じられる浅川滋男氏もそこで見かけた。司書の方と親しいらしく「勝手知ったる・・・」と言いつつ受付の机のなかにむんずと手を突っ込んでいたのを、何故かよく覚えている。わたしもしばらく入り浸っていると、「あのね、登録されてないけど岸田日出刀さんの本がまだあるのよ、オットー・ワーグナー。借りていく?」と、司書の方にお声をかけていただき、思わずにやけてしまったことも何故かよく覚えている。ほんとうにどうでもいい話であるが。
いずれにしても『南蛮幻想』あたりから著者の本を読むのをやめた。「邪推する楽しみ」を目的としたこれはちょっと高級な娯楽であって、あまり生産性がないようにも思えたからである。それゆえ、私にとってひさしぶりに読ませていただいた井上本である。
ところで本書にはまた丸山茂氏の名前もたびたび登場し、あとがきでは「丸山説をしりぞけた以上、私も私なりの代案をしめすべきだと、考えた」という記述も見える。丸山氏と言えば、在地信仰から神社という形式が成立したのではなく、在地の伝統を官社制のなかで神社という形式として中央が整備していったという、「画期的な」神社建築史論を近年となえた方である。丸山氏が自説で集中砲火を浴びせたのは文字通り、在地信仰が神社へと発展していったとする説をとなえた福山敏男である。つまりかつての京大歴史研教授で神社建築の権威とされてきた人物で、いっぽう丸山氏は東大歴史研のご出身である。神社建築史における内ゲバのように見えなくもない。通説である福山説もそうなのかもしれないが、丸山説も根拠のある説ではなく、本書でも「丸山は、後者にたつ津田や福山が、論証していないと言う。しかし、前者の史観が正しいとあかしだてることも、できないだろう。ようするに、どちらもひとつの史観でしかないのである」(352頁)として、退けられている。東大寺国分寺のネットワークによって外来の仏教が実質的な国家宗教の地歩を固めつつあった時代、なぜ神社というもう一つのネットワークを築こうとしたのか、いろいろ説はあるようだがこの点に関してこれといった説がない方が、個人的には興味のあるところではある。
本書の冒頭ではまた、丸山氏らをはじめとした「じゅうらいの神社建築史に反省をせまる史家」の勇み足が諌められている。「最近は、旧来の「虚構」がくずされつつあるという。では、なぜこれまで、そんな「虚構」がまかりとおってきたのだろう。だれがこういうものをつくったのか。山岸は、伊東忠太の名をもちださない。「虚構」が定着したのは「明治以降の国家神道の影響」によると、述べている。個人の名前より、一時代をおおっていた観念に、重きをおいた。だが、けっきょくは、「明治以降」に鍵があるという。その点では、明治期の伊東が画期をもたらしたとする黒田や丸山と、かわらない。どちらも「虚構」の起源が江戸時代へさかのぼりうるとは、思わなかった。そもそもその可能性をさぐろうともしていない」(90頁)。
天地根源造を建築の起源に置く説は江戸時代にすでにできていたことや、18世紀初頭には合理主義的な建築論が芽生えていたことなどを上げ、伊東の日本建築史は江戸時代にできていた歴史観を敷衍したものであって、明治期に「虚構」として造られたものでないことを、著者は冒頭で述べていく。またこうした説は20世紀半ばにおいて登呂遺跡の復元によって終焉していったことも、述べられていく。つまりこれは18世紀に始まって20世紀半ばに終焉した範型なのであって、「明治期以降の虚構」であるとする考え自体に根拠がない、というわけである。
著者はまた、実証性よりも「想像力やイメージに重きをおく」1980年代以降のニュー・アーケオロジーにも手厳しい。なにかと「聖性」を持ち出す傾向には、江戸時代に流行した神学との共通性をも見ている。「旧石器捏造事件」というのがあったが、もしかしたらこうしたものも、ニュー・アーケオロジーの負の側面を戯画的に見せたものだったのかもしない。
ところでモダニズムとの関係では、著者は本書においてもっぱら掘口捨巳に集中砲火をあびせ、岸田日出刀にはほとんど言及しない。「岸田が戦前からモダンデザインをささえてきたことは、あらためて言うまでもないだろう」(364頁)として、式年遷宮でデザインが変えられる話で言及されるに留まる。
さて、そんなに岸田に『建築学者伊東忠太』(相模書房昭和19年)という著作がある。同書において岸田は「わが国の建築は古来外国の建築を摂取してこれを同化することによって発展してきた。・・中略・・余は以上の見地から、わが国の建築が明治以来しきりに外国の模倣に腐心してきたのは当然であると思うと同時に、早晩模倣の域を脱して同化時代に入ることを信ずるのである」(131頁)という伊東の言説を引き、そこに岸田は同意と微妙な批評をくわえている。伊東忠太が設計した建築はブリティッシュ・ビクトリアンを基本としながら、インド建築やムガール様式をピクチャレスクに折衷したエクレクティック・クラシシズムであったといえる。これは同時代の傾向であったとともに、「開国」というトラウマからきた明治時代人のコスモポリタニズムの表れであったとみることもできる。いっぽうで昭和の岸田はモダンデザインを支えつつ、著者の言葉に倣えば「自閉的な」国粋主義と本書では関係付けられるものである。同じ範型の歴史を共有していても、様式建築とモダニズムのこの捩れは、個人的には興味のあるところである。
著者はまた「中国では、黄河文明の基壇建築が、長江文明の干闌建築をおしつぶしていった。彼地で両者がまざりあい、生まれかわった例が、どのくらいあったかのかは分からない。しかし、洗練の美が語れるほどの遺構は、もう見当たらなくなっている。いっぽう、日本では、神宮に、黄河文明長江文明がとけあった様子を、読みとれる。日本的な独自性があるとすれば、そういう場を提供しえたことではなかったか。黄河文明長江文明を、駆逐するにまかせるのではない。前者で後者をみがきあげた例が、とにもかくにもあらわれた。そこにこそ、私は日本建築史の個性を感じたい」(361頁)と、みずからの仮説も述べている。これもまた仮説の一つというわけである。
黄河文明長江文明の争いといえば『三国志』を思い出す。黄河流域の陸上騎馬集団と長江流域の水上集団のこれは戦いでもあり、東国の陸上騎馬集団と西国の水上集団の争いである日本の源平合戦とも、まあ似ている。与太話ついでに書けば、明治のコスモポリタニズムがシルクロードという陸上ルートを辿ったとすれば、戦後は柳田国男の『海上の道』のように、黒潮を遡行する海上ルートが辿られたとも、言える。本書のうしろで登場する浅川滋男氏の説にも、こうした傾向と重なる部分もあるのではなかろうか。その浅川氏の説とは同じではないが、シンガポールのロクサーナ・ウォータソンの『生きている住まい、東南アジア建築人類学』(邦訳は学芸出版、1997)では、インドネシアのトラジャ人の建物と伊勢神宮が関係付けられていたように思う。両者に共通して目をひくものの一つが「千木」であり、トラジャ人のものの方の原型は、水牛の角とされていたのではなかったろうか。べたな精神分析からすればこれはファルスであり、日本語でいう「うだつ」ということになる。
まったく話は飛ぶが、むかしラテンアメリカを旅していて、ジャングルの奥へ入っていくと急に視界が開け、稲作水田とテクトニックな木造家屋が散在する風景を見て、「ここはアジアか」と思ったことがある。アメリカ先住民は基本的には東洋人である。
太平洋の海流は北半球では日本の脇を通ったあと、ハワイあたりまで中継点がない。しかし南半球であれば、オセアニアからラテンアメリカまで島伝いで行けないものかと、妄想してみる。


伊勢神宮 魅惑の日本建築

伊勢神宮 魅惑の日本建築

こちらでもお名前を書かせていただいた竹中平蔵氏と名刺交換させていただく。
「ほほぅ、建築家ですかぁ」。
6月のときも“I`m so frustrated”.とおっしゃっていましたが、氏の政策は誤解されている部分があるのかもしれません。お話を窺っているとその経済思想の核のようなものが理解できたような気もいたしました。

豆知識

タイル生産量が多い国は1位が中国、続いてスペイン、ブラジル、イタリア、トルコ、ポルトガル・・・。磁器、せっ器、陶器、いずれにせよ景徳鎮などの焼物やイスラム・タイルの伝統があるからだろうか。技術的にはイタリアの釜でなければ焼けない色などもあるそうだ。

ハル・フォスター編 『視覚論』 榑沼範久訳、平凡社ライブラリー、2007




文庫本だけあって電車のなかでも読める。ニューヨーク・ディアアートセンターでの1987年のシンポジウムでのペーパーと討議の翻訳。
全体はロザリンド・クラウスのペーパーを折返点として、前半にマーティン・ジェイの「近代性における複数の「視の制度」」、ジョナサン・クレーリーの「近代化する視覚」、後半にノーマン・ブライソンの「拡張された場における〈眼差し〉」、ジャクリン・ローズの「セクシュアリティと視覚」が並ぶ。
マーティン・ジェイの「複数の・・・」という巻頭論文では、「複数」というより実際にはイタリアとオランダ、クラシックとバロック、美と崇高、ついでに言えばモダンとポストモダンといったお馴染みの対概念装置が並び、また「ナントカ中心主義を解体して複数のカントカへ・・・」といったミシェル・フーコー以降よく使われ今日ではクリシェと化している謂いが述べられているところで、1987年という時代を感じさせるとともに、いささか粗いマニフェストに見えなくもない。
ジョナサン・クレーリーの「近代化する視覚」はのちの彼の著作『観察者の諸手法(邦訳は観察者の系譜)』のスケッチでもある。
個人的な話をさせていただくと、15年前、コロンビア大学のエイブリー図書館の地下2階にあるキャレルと呼ばれる机で一日の大半を過ごしていたころ、私の左隣ではオーストラリアからのアートヒストリーの客員研究員が毎朝わたしより早くやってきては毎晩わたしより早く帰っていき、そしてわれわれの席の後ろでは『オクトーバー』誌の編集委員で当時売出中だったジョナサン・クレーリーがたまに行ったり来たりしており、出版されて間もなかった『観察者の諸手法』を読んだとき、私の後ろをたまに行き来するあのヲッサン、あのヲッサンの書いたこの本はなかなか凄んじゃないか、と興奮したものだ。
大雑把に言って同書は、カメラ・オブスクラにモデル化される静的な視覚性が、ソーマトロープ等の登場によって動的な近代的な視覚性へと移行していくという見取図を提出し、この視覚性の変容に際して網膜残像などの生理学的な知見の変容があったことを裏付け、なおかつ一般に考えられているように近代性の変容は1870年頃に起こったのではなく、1820年代という早い時期にすでに起こっていたとする説を、鮮やかに記述したものだったと思う。ソーマトロープとはカメラ・オブスクラから発展した視覚的娯楽装置で、のちに登場する映画はこれらの装置をさらに発展させたものとも言える。
視覚と視覚性は異なる。視覚性は構成されたものである。人間の視覚神経伝達の秒速約27.5mという「予想外の遅さ」は人間が見ている対象と実際の対象にはずれがあること、その対象視覚が視覚性となるには何かが介在し、視覚性が構成されていることを示している。
「視覚を真正な対象から切り離し、身体において構成されるものとみなしたからこそ、モダニズムの芸術表現にしても、フーコーが「個人についてのテクノロジー」と呼んだ新しい支配形態ににしても、可能になったのである。19世紀後半から20世紀にかけての支配やスペクタクルのテクノロジーと分かちがたいのは、もちろん映画と写真である。逆説的なことに、映画と写真が覇権を拡大していくにつれて、視覚は非肉体的で、真正な対象を持ち、「現実」を映し出すという神話が、ふたたび力を持つようになった」(74頁)。
ノーマン・ブライソンのペーパーはこの視覚性が文化によることを、西谷啓治サルトル批判をジャック・ラカン読解に効果的に用いることで示そうとする。
ベンヤミンの論考に「対象が見返す眼差し」といったものがあったが、ラカンはこれを「染み」「眼差し」と呼ぶ。「共有しうる視覚的経験を人々が織り上げていくためには、一人ひとりが自分の網膜上の経験を、社会的に含意された了解可能な世界の記述にしたがわせなければならない。こうして視覚は社会化され、社会的に構成された視覚的現実から逸脱したものは、幻覚、誤認、あるいは「視覚障害」という烙印を押される。主体と世界のあいだには、ありとあらゆる言説の総体が挿入されている。それによって、文化的構築物としての視覚性が形成され、視覚性は視覚(つまり、媒介されていない視覚経験)と異なるものになる。網膜と世界のあいだには、無数の記号のスクリーン(すなわち、社会的領域に組み込まれた、視覚に関する多種多様な言説の総体)が挿入されているのである。
このスクリーンは影を投げかける(ラカンはこの影を暗点と呼んだり、染みと呼んだりしている)。なぜなら、われわれがスクリーンを通して見るとき、われわれに見えるものは、外部から与えられるネットワークに引っかかったものなのだから。そのネットワークが意味作用の可動的モザイク、動的テッセラである。それは、個人のおよぼせる力を超えたところにある審級である」(134-135頁)。
「見る主体は知覚の地平の中心に立っておらず、視覚の領域を横切るシニフィアンの連鎖や系列を支配することはできない。視覚は他者のわきで、その場に接してくりひろげられる。このような視覚のあり方に、ラカンは名を与える。他者の場に接しながら見ること、〈眼差し〉のもとで見ること、と」(138頁)。
この視覚/主体の脱中心化を例示するものとしてラカンが上げるのは、ハンス・ホルバインの絵画『大使たち』である。ブライソンはしかし、こうしたラカンの言説と例示になにか否定的なものを嗅ぎ取り、ラカン(とホルバイン)を相対化するにあたって西谷の言説と雪舟村田珠光の禅画(水墨画)を持ってくる。西谷の言説にはラカンと共通なものがあり、なおかつラカンともども主体の脱中心化を扱っているからであって、変なオリエンタリズムから西谷や禅画が引かれるわけではない。
西谷啓治の『宗教と無』はジャン・ポール・サルトルの『存在と無』批判であったという。西谷/ブライソンによれば、サルトルニヒリズムは中途半端なものであり、対象世界の虚無化はかえって主体の強化を結果しているという。西谷/ブライソンがここで持ち出すのがいわずもがな「空」であり、「無」であり、そして「場」の論理である。「場」の論理はサルトルにはまだ残っていたいわば「〈象徴形式としての〉遠近法」を完全に抹消するものとしてあり、「空」はこの場における二重否定としてある。西谷の二重否定はもともとヘーゲルからきているが、禅的な「非ず非ず」の論理とも言える。
ブライソンによればラカンの「眼差し」はパラノイア的であり、「主体が視覚性という社会的領域に入ることを破滅的な出来事とみなしている」という。しかし個人がこの構築物のどこに立たされるかによって「恐怖の度合い」も変わってくるのではないかと、西谷を引きながら最終的にブライソンは問題提起をする。


こちらもどうぞ。




視覚論 (平凡社ライブラリー)

視覚論 (平凡社ライブラリー)