“The Palestinian Question, the couple of Symptom/Fetish, Islamo-Fascism, Christo-Fascism, mieux vaut un desastre qu`un desetre”
Slavoj Zizek


ある方に「読め」と言われ、手渡されたスラヴォイ・ジジェクのペーパー。こちらと重なる論旨もある。今年(2009)春にパキスタンパレスチナで起きた出来事も引かれているので、最近書かれたものと思われる(lacanian inc.からのDLか)。
冒頭で書かれていることは古典的マルクス主義では何度も述べられてきたもので、目新しいものは、とくにない。
半ばあたりからは、ベンヤミンの「ファシズムとは革命の失敗の指標である(ファシズムは左翼の失敗にとっ替わったものである)」という謂いが通奏低音のように、繰り返されていく。もっとも、レーニン主義の「党」として始まったアルカイーダがイスラム原理主義の武闘組織になっていったという例などは、フランス革命後のジャコバンにまで遡行できるだろうし、1920-30年代初頭のドイツ共産党とナチの関係も、これまでも様々なところで議論されてきたものである。
パレスチナ関連の発言への批判、たとえばフランシス・フクヤマやベルナール・アンリ=レビらによる「イスラモ・ファシズム」という造語に対する批判や、ホルクハイマーの「リベラル・デモクラシーやその高貴な原理を(批判的に)語ることを欲しない者は、宗教原理主義についても語るべきではない」を引きながら、「リベラルはとっくに失効している」として、リベラルの欺瞞を批判する論理も、とくに新しいとは思えない。
このペーパーの肝は、「中東摩擦にもしも二つの秘密があるとしたら、どうだろう。世俗的なパレスチナ人とシオニズム原理主義者という、二つの秘密である。世俗言語で語るアラブ原理主義者と、神学的合理化に依拠するユダヤの世俗的西洋人である」という、一般的な臆見を転倒したあたりから始まる終章にあるだろうか。この終章はサイードと対称的な視点から(パレスチナを)よく見たものであるようにも見える。
「奇妙なことは、宗教観念にかくも神を持ちこんだのは世俗的なシオニズムであり、つまりある意味でイスラエルの本当の信者は、非・宗教的である」「(それゆえ)悲しむべきことに正統派ユダヤがいまや、ますます自らが実際、神を信仰していることを確信しているように見える、ということである」。「イデオロギー的なこの捩れによる逆説的な結果は、いまや自身への関係の極点に達する反ユダヤ主義の最終版に、我々は立ち会っているということである」。
著者によればナチによる反ユダヤ主義の特徴の一つは、ユダヤとは国家の外部にあるとすることであり、それゆえマダガスカルからパレスチナのどこかにユダヤ国民国家を造ればいい、という主張があったことであるという。逆説的なことにイスラエルには、これと重なるところがないわけではなかろう。そして「理性の公的活用」領域におけるユダヤの特権的位置は、まさに国家・権力から一歩身を引いたところにあるという。イスラエルの国家・権力から一歩身を引くユダヤ、あるいはユダヤにおけるユダヤユダヤのなかのユダヤ、彼らこそがスピノザの最良の後継者である。
という読みに反対するジャン=クロード・ミルナーの言説が、次に引かれる。「近代ヨーロッパにおけるユダヤ人の解放は、彼らをタルムードの研究から普遍的(科学的)探求へと向かわせた」(一神教的普遍性による知のユダヤの登場。さらにユダヤ系知識人のあいだにマルクス主義が浸透しているのはそれが「科学的」だからという)。「啓蒙主義はそれゆえ、ヨーロッパのユダヤ人に、その名、伝統、ルーツを無視しつつ、科学的知による普遍性のなかに自らの居場所を見出す機会を与えた。しかしながらこの夢は残酷なことにホロコーストとともに終わった」。「20世紀に起こったのは、ユダヤの名の回帰」である、という。
ここから1950年代と60年代の状況が一瞥される。
1950年代のサルトルと1968年(その最良の思想家はドゥルーズである)ののち、(ベニー・レビーらは)ユダヤの名への忠誠を選び、他はキリスト教的精神を選んだという。著者によれば、ミルナーの著作の核はこのあたりの分析にあるという。ミルナーはさらにマグリットによるだまし絵の比喩を用いつつ、ファシズムの真の敵は左翼などではなくユダヤ(つまりユダヤの名)であることを、プロレタリアート左翼は直視しようとしないと言う。
この先、著者は部分的にミルナーのこうした主張を認めつつも、ペーパーのタイトルにあるおそらくSymptom/Fetishを再度用いつつ、結語部分に向かってミルナーに批判をくわえていく。「この事実はしかし、何を意味するのか? 古典的マルクス主義の観点からこれは解釈できないのか、つまり「ユダヤ」という文字の反ユダヤ主義とは階級闘争の比喩的代用である、とは。階級闘争の消滅と反ユダヤ主義の(再)登場は、同じコインの両面である。というのも「ユダヤ」の文字にある反ユダヤ主義の現前は、階級闘争の不在という背景においてのみ理解可能だからである」。
ベンヤミンの言葉が最後に繰り返される。ベンヤミンへの、この信頼。


以上のような読解でよろしかったでしょうか。


それにしてもアメリカでは、ドゥルーズデリダジジェク・・・という流れになりつつあるのだろうか。