広尾交差点近くにある建築家・渡部英彦氏の事務所にお邪魔する。ランチタイムに始まり夜の9時に終わるまで、ノンストップの濃密なカンバセーション。プライベートな会話を電網与太話にするのはいかがかという考えもあるでしょうが、差障りないと思われる範囲でいくつか。
まず氏の生立ちから。渡部氏の祖父は日本画家、父は建築家であったという。中学高校時代の英彦氏の鉛筆画、水彩画、油彩画も見せていただいた。うまい、お上手です。筆の速度や運びに日本画的な面もあるように見え、また大学以降のスケッチにはおなじく筆勢がある。話はそれるが、概して最近の若い建築家さん達には、建築設計の基本の一つであるデッサンやスケッチを疎かにした傾向が見られる気がしなくも、まぁない。
父は文字違いの渡辺、渡辺仁事務所に勤務されていたそうで、そこで皇居前の第一生命館、銀座の服部時計店(和光)などを担当されたという。第一生命館の担当者は松本与作とされることが多いが、それは違うのではとのこと。話はふたたびそれるが、渡辺仁事務所といえば歴史的には様式建築時代の終焉あたりに位置づけられる。様式が多少崩れている場合でも同事務所の作品がカッチリして見えるのは、基本に古典主義があってプロポーションやディテールがしっかりしているからではなかろうか。
さて、英彦氏の作品には東京女子医大日本心臓血圧研究所研究棟(1960年代)、学習院創立百周年記念館(1970年代)などがある。後者はアプローチや外構、ホワイエなどの計画がなんとも奥ゆかしく、またアルヴァ・アアルトの作品を彷彿させるところがあり、
「上品というか、品がありますね」
「増田(友也)先生にも同じことを言われた」。
反対運動に遭ったり、30年とたたないうちに取壊される建築もあるなか、30年大事に使われて続け、今なお使われているというのは、建築家冥利につきるのではなかろうか。銀座の和光にも、同じ性質のものがあるかもしれない。
ところで氏の高校時代の友人の一人が石原慎太郎氏(現・東京都知事)で、大学時代のクラスメートの一人が黒川紀章氏(建築家、故人)であった、と書くと、黒川氏を石原氏につないだのは・・・などと邪推しそうになる。
「私にとって黒川君はいい友人だった」
と言って見せていただいたのは、2007年2月14日に黒川氏から手渡された腕時計の贈物であった。人生最後のバレンタインデーに男友達に自分のデザインした腕時計を贈るところが、なんとも黒川さんらしいというか。
「黒川君の代表作は何だったと思う?僕は中銀カプセルタワーが黒川君らしいって本人に言った。本人はそれを否定して、クアラルンプール国際空港だって」。
窓の外が暗くなる頃には話は1960年代にまで遡り、午前2時の増田友也研究室の逸話や、同じく午前2時の丹下健三研究室の逸話までも、会話にのぼる。
丹下健三氏の代々木オリンピック体育館。シビルエンジニアリングからエアロダイナミクスまでの工学を用い、また手の込んだ操作的デザイン、さらに歴史的・文化的言説によるイコノロジーの構築、そして舞台となるのが東京オリンピック。こんな建築は百年に一度くらいしか登場しないのだろうな、と思う。石原慎太郎氏が「東京オリンピックの感動を・・・」と言っていたのも、まぁ分からなくもない。
渡部氏自身や黒川氏の仕事術やビジネスの方法についても、いくつか教えていただいた。


「増田先生が言っていたことだが、人生には自分にも信じられないような機会に遭遇することがある。それまでの日々の努力を怠らなかったかどうかが、勝負。君と僕の年齢は30くらい違うが、30年なんてあっという間だ。じゃ、お疲れさま」。
「お疲れさまです」。