アブストラクト・シュルレアリスム
パリにおいて絵画と建築が最も接近した1925年頃、レジェやオザンファン、そしてル・コルビュジエ自身の絵画は、形や色彩が複雑で多様なものへと回帰することですでに温和なものとなり始めていた。しかしながらまさに1920年代中期において、カンディンスキーとクレーの作品を除くほとんどの抽象芸術が根拠としていた合理主義的前提を、文学を主としたシュルレアリスムの新しい諸理論が截然と拒絶したのだった。のちに有名となるシュルレアリスムの一派はフロイト的な「夢絵画」という名においてかつての具象絵画の技術を、すぐさまそして十全に精密化することで復活させた。こうした絵画は建築家にとっては直接的絵画表現という点で19世紀芸術以上に語ることはない。だが純粋に機械的で行動主義的観点から20世紀の普遍的芸術統合を見ていた全ての者たちには、これは大きな衝撃を与えた。
建築家にとってより重要なものは「アブストラクト・シュルレアリスム」と呼ばれるものだった。アルプとミロの作品では自由曲線が直截な表象こそないものの自然な有機体を示しており、これがフランス・ピュリスム風あるいはオランダまたはドイツ抽象芸術風の、簡潔な幾何学曲線群や直線群に取って代わっている。こうした作品にある多様性の評価は1930年代のモダンな建築において機械のような謹厳さを緩和するのに重要な役割を疑いなく演じた。この関係は1920年代初頭の絵画と建築のあいだにあったものほど直接的ではないが、しかしフィンランドのアールトの作品や、ブラジルの一群のモダンな建築家の平面に特徴的な自由でなおかつ非・機械的な曲線はこの種の抽象芸術と確かに関係していた。画家の(ロベルト)ブーレ=マルクスによる庭園デザインはブラジルにおける最良の新しい建物のほとんどに効果的にしっくりしており、そしてもちろんアルプのレリーフやミロの絵画のように「心理的」というわけではない。これらはしかしながら、18世紀におけるプッサンやクロードの古典的風景画と英国庭園の関係のように、非・機械的絵画を庭園へと直接的に翻案しているようにも見える。
アメリカではいまや店舗やレストランやインテリアにおいて、アルプやミロの自由曲線は概してモダンな建築の謹厳さを軽減するために広く用いられている。(遅れて誤用されていると、実際考える向きもあろう)。だが彼らの芸術には、モダンな建築家たちが徐々に理解してきた深い理論的正当性もまたあるのである。
ちょうど1920年代初頭の抽象芸術が自然を排除したように、初期モダン建築は自然からの人間の自立を強調したように見える。自然はもちろん、すぐさま報復した。この時代の絵画が額縁に入れられ、ガラスを嵌められ、純粋数学形態によるプラトン主義的宇宙の自律性のビジョンをいまだ現前している一方、1920年代において白や原色の抽象面でデザインされたモダンな建築の漆喰塗の表面は、ひびが入り、退色が始まると、その視覚効果が基礎を置いていた数学的正確さをすぐさま失っていった。アルプによるいくつかのレリーフでの自然素材の利用や、ミロの絵画に特徴的な明らかに偶然につけられたしみや背景の斑点の利用は、表面素材へのまた異なるアプローチをモダンな建築家に示すのに寄与してきた。
ライトはその精神形成を19世紀に行った者だが、建物はつねに風景のなかにあり、時間と気候の自然現象に身を委ねていることにいつも自覚的だった。それゆえ建築素材はその有機的生命を自然界に持ち、単なる色彩の抽象分野として扱われるべきでないことを、彼は知悉していた。その作品が時間のなかで優雅に成熟するものとすれば、建築家はこの有機的生命を理解し、尊重しなければならない。もともとの表面の完璧さが崩れると悲観されるように見えるかもしれないモダンな建築は、かくして時間とともに備わる風格を獲得し、みすぼらしくはならないことをむしろ希望できる。
他の画家たちはこう叫ぶ。「表面を大事にせよ。そうすれば全てを保てる」。だが建築においては表面におけるモンドリアン風の性質は、何度塗りなおされようとも視覚的に保てるものではなかろう。塗装の繰り返しによる皮膜はエッジを曖昧にし、表面をでこぼこにしてしまうからである。それゆえ塗料自体は単なる色彩の層ではなく、素材と見做されねばならない。
建築における多様な肌理をもった素材の使用への回帰、表面における視覚上の真正さを失うことなく風雪に耐え得る素材への回帰は、近代的な写真家たちが行っていた肌理の抽象性の探求に疑いなく負っている。様式上の形態を直写しようとはせずに、あるいは大スケールでの抽象性の効果を模倣しようとさえせずに、素材の特定の質を注視しながら過去の建築を再・吟味するという今日ますます大きくなりつつある傾向は、表面その他を処理するのに手作りと機械処理の職人術に独特な質を、建築家が調整するのに役立っている。事実、「流線型」デザイン派の工業デザイナーたちに偏愛されている機械仕上げの精確さとは、確からしい技術による製品全てに当てはまるものではなく、ほんの一側面に過ぎないことが徐々に認識され始めている。それはこうした仕上げを簡単にもたらす特定の道具や方法の結果にすぎず、こうした道具や方法はモダンな工業デザイン技術の数あるもののほんの一部分であるにすぎない。より洗練された機能主義はそれゆえ、かつての理論家による工業的な機械美学をすでに大幅に改めてきているのである。」


ルフレッド・バー『絵画から建築へ』(部分/拙訳)