井上章一 『法隆寺への精神史』 弘文堂 1994


大雑把に言って法隆寺の柱の「エンタシス」と伽藍配置を主モチーフにしながら、学説がそれぞれの時代の「精神」のなかでいかに動いていったかを見た書、といったところでしょうか。展開はしかし、cultural / inter-cultural という軸で動いているように見えます。
ギリシア建築の円柱におけるエンタシスと法隆寺の柱の胴張を結びつける考えは明治時代、アーネスト・フランシス・フェノロサから始まった、という。4世紀のアレクサンダー大王東征によってヘレニズム(後期ギリシア文化)がガンダーラに達し、唐を経て6世紀以降、日本に到達し、法隆寺正倉院はその証しということに、いったんなったという。フェノロサのbrainchildから始まったこの説、ということになるのだろうか。
フェノロサはヘーゲリヤンにして」と言ったのはフェノロサの弟子である岡倉覚三だったが、「ヘーゲリヤン」である以上、審美的にはギリシア文化を高く評価していたはずである。おもしろいのはその岡倉が『東洋の理想』において、東洋史において肝心のガンダーラより西を完全に切っていたことである。本書ではこうしたことが20世紀初頭のインドの独立運動や、そうした思潮のなかで登場したアーネスト・ハベルらのインド固有美術論との関係という「精神史」から見られていく。
また岸田日出刀や太田博太郎といったモダニストになると、胴張も伽藍配置も、inter-culturalな側面がまったくなくなり、culturalな部分のみ強調されていったという。
一般的に見て歴史遺構を考えるばあい、「言葉」と「物」の一致が鍵ということになるのではなかろうか。この点で、本書に登場する伊東忠太の大同(雲崗石窟)の発見や、石田茂作による法隆寺境内の発掘から導かれる結論は、説得力のあるものとされる。伊東はこの発見によって、現存する法隆寺建築への影響が唐経由で天智期に来たものではなく、北魏経由で推古期に来たものであるという説を確かなものとし、また石田による法隆寺境内の発掘は、現存する法隆寺は創建時のものではなく、『古事記』にあるように焼失したのち再建されたものであり、かつ伽藍配置も創建時のものと異なり、四天王寺式から薬師寺式への変遷期を示しているという説を確かなものとした、と言える。
本書の趣旨から外れるかもしれないが、言葉だけならすべてbrainchildとして言える、ということになるだろうか。



法隆寺への精神史

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