井上章一 『伊勢神宮 魅惑の日本建築』 講談社 2009




どうでもいい話であるが、個人的な話をさせていただくともう23年前の夏、京都大学建築系図書室の書庫の奥にある机で一日の大半を過ごしていたころのことである。その当時売り出し中だった井上章一氏がたまたま書庫に入ってきて調べものをして出て行こうとするところを後ろから、「あのう、もしかして井上先生ではありませんか。先生の本、ぜんぶ読みました」と不躾にも声をかけさせていただいたことがある。すかさず「それは有難うございます」と頭をお下げになったのには恐縮した。そのご「論文はキン(以下略)」とか「全国の学位論文を(以下略)」とか、京都人らしいブラックユーモアを語られていたと記憶する。
本書でかなり頁を割いて論じられる浅川滋男氏もそこで見かけた。司書の方と親しいらしく「勝手知ったる・・・」と言いつつ受付の机のなかにむんずと手を突っ込んでいたのを、何故かよく覚えている。わたしもしばらく入り浸っていると、「あのね、登録されてないけど岸田日出刀さんの本がまだあるのよ、オットー・ワーグナー。借りていく?」と、司書の方にお声をかけていただき、思わずにやけてしまったことも何故かよく覚えている。ほんとうにどうでもいい話であるが。
いずれにしても『南蛮幻想』あたりから著者の本を読むのをやめた。「邪推する楽しみ」を目的としたこれはちょっと高級な娯楽であって、あまり生産性がないようにも思えたからである。それゆえ、私にとってひさしぶりに読ませていただいた井上本である。
ところで本書にはまた丸山茂氏の名前もたびたび登場し、あとがきでは「丸山説をしりぞけた以上、私も私なりの代案をしめすべきだと、考えた」という記述も見える。丸山氏と言えば、在地信仰から神社という形式が成立したのではなく、在地の伝統を官社制のなかで神社という形式として中央が整備していったという、「画期的な」神社建築史論を近年となえた方である。丸山氏が自説で集中砲火を浴びせたのは文字通り、在地信仰が神社へと発展していったとする説をとなえた福山敏男である。つまりかつての京大歴史研教授で神社建築の権威とされてきた人物で、いっぽう丸山氏は東大歴史研のご出身である。神社建築史における内ゲバのように見えなくもない。通説である福山説もそうなのかもしれないが、丸山説も根拠のある説ではなく、本書でも「丸山は、後者にたつ津田や福山が、論証していないと言う。しかし、前者の史観が正しいとあかしだてることも、できないだろう。ようするに、どちらもひとつの史観でしかないのである」(352頁)として、退けられている。東大寺国分寺のネットワークによって外来の仏教が実質的な国家宗教の地歩を固めつつあった時代、なぜ神社というもう一つのネットワークを築こうとしたのか、いろいろ説はあるようだがこの点に関してこれといった説がない方が、個人的には興味のあるところではある。
本書の冒頭ではまた、丸山氏らをはじめとした「じゅうらいの神社建築史に反省をせまる史家」の勇み足が諌められている。「最近は、旧来の「虚構」がくずされつつあるという。では、なぜこれまで、そんな「虚構」がまかりとおってきたのだろう。だれがこういうものをつくったのか。山岸は、伊東忠太の名をもちださない。「虚構」が定着したのは「明治以降の国家神道の影響」によると、述べている。個人の名前より、一時代をおおっていた観念に、重きをおいた。だが、けっきょくは、「明治以降」に鍵があるという。その点では、明治期の伊東が画期をもたらしたとする黒田や丸山と、かわらない。どちらも「虚構」の起源が江戸時代へさかのぼりうるとは、思わなかった。そもそもその可能性をさぐろうともしていない」(90頁)。
天地根源造を建築の起源に置く説は江戸時代にすでにできていたことや、18世紀初頭には合理主義的な建築論が芽生えていたことなどを上げ、伊東の日本建築史は江戸時代にできていた歴史観を敷衍したものであって、明治期に「虚構」として造られたものでないことを、著者は冒頭で述べていく。またこうした説は20世紀半ばにおいて登呂遺跡の復元によって終焉していったことも、述べられていく。つまりこれは18世紀に始まって20世紀半ばに終焉した範型なのであって、「明治期以降の虚構」であるとする考え自体に根拠がない、というわけである。
著者はまた、実証性よりも「想像力やイメージに重きをおく」1980年代以降のニュー・アーケオロジーにも手厳しい。なにかと「聖性」を持ち出す傾向には、江戸時代に流行した神学との共通性をも見ている。「旧石器捏造事件」というのがあったが、もしかしたらこうしたものも、ニュー・アーケオロジーの負の側面を戯画的に見せたものだったのかもしない。
ところでモダニズムとの関係では、著者は本書においてもっぱら掘口捨巳に集中砲火をあびせ、岸田日出刀にはほとんど言及しない。「岸田が戦前からモダンデザインをささえてきたことは、あらためて言うまでもないだろう」(364頁)として、式年遷宮でデザインが変えられる話で言及されるに留まる。
さて、そんなに岸田に『建築学者伊東忠太』(相模書房昭和19年)という著作がある。同書において岸田は「わが国の建築は古来外国の建築を摂取してこれを同化することによって発展してきた。・・中略・・余は以上の見地から、わが国の建築が明治以来しきりに外国の模倣に腐心してきたのは当然であると思うと同時に、早晩模倣の域を脱して同化時代に入ることを信ずるのである」(131頁)という伊東の言説を引き、そこに岸田は同意と微妙な批評をくわえている。伊東忠太が設計した建築はブリティッシュ・ビクトリアンを基本としながら、インド建築やムガール様式をピクチャレスクに折衷したエクレクティック・クラシシズムであったといえる。これは同時代の傾向であったとともに、「開国」というトラウマからきた明治時代人のコスモポリタニズムの表れであったとみることもできる。いっぽうで昭和の岸田はモダンデザインを支えつつ、著者の言葉に倣えば「自閉的な」国粋主義と本書では関係付けられるものである。同じ範型の歴史を共有していても、様式建築とモダニズムのこの捩れは、個人的には興味のあるところである。
著者はまた「中国では、黄河文明の基壇建築が、長江文明の干闌建築をおしつぶしていった。彼地で両者がまざりあい、生まれかわった例が、どのくらいあったかのかは分からない。しかし、洗練の美が語れるほどの遺構は、もう見当たらなくなっている。いっぽう、日本では、神宮に、黄河文明長江文明がとけあった様子を、読みとれる。日本的な独自性があるとすれば、そういう場を提供しえたことではなかったか。黄河文明長江文明を、駆逐するにまかせるのではない。前者で後者をみがきあげた例が、とにもかくにもあらわれた。そこにこそ、私は日本建築史の個性を感じたい」(361頁)と、みずからの仮説も述べている。これもまた仮説の一つというわけである。
黄河文明長江文明の争いといえば『三国志』を思い出す。黄河流域の陸上騎馬集団と長江流域の水上集団のこれは戦いでもあり、東国の陸上騎馬集団と西国の水上集団の争いである日本の源平合戦とも、まあ似ている。与太話ついでに書けば、明治のコスモポリタニズムがシルクロードという陸上ルートを辿ったとすれば、戦後は柳田国男の『海上の道』のように、黒潮を遡行する海上ルートが辿られたとも、言える。本書のうしろで登場する浅川滋男氏の説にも、こうした傾向と重なる部分もあるのではなかろうか。その浅川氏の説とは同じではないが、シンガポールのロクサーナ・ウォータソンの『生きている住まい、東南アジア建築人類学』(邦訳は学芸出版、1997)では、インドネシアのトラジャ人の建物と伊勢神宮が関係付けられていたように思う。両者に共通して目をひくものの一つが「千木」であり、トラジャ人のものの方の原型は、水牛の角とされていたのではなかったろうか。べたな精神分析からすればこれはファルスであり、日本語でいう「うだつ」ということになる。
まったく話は飛ぶが、むかしラテンアメリカを旅していて、ジャングルの奥へ入っていくと急に視界が開け、稲作水田とテクトニックな木造家屋が散在する風景を見て、「ここはアジアか」と思ったことがある。アメリカ先住民は基本的には東洋人である。
太平洋の海流は北半球では日本の脇を通ったあと、ハワイあたりまで中継点がない。しかし南半球であれば、オセアニアからラテンアメリカまで島伝いで行けないものかと、妄想してみる。


伊勢神宮 魅惑の日本建築

伊勢神宮 魅惑の日本建築