言わずもがなですが、フランク・ロイド・ライトが日本の文化からおおきな影響を受けたことはよく知られています。ディテールはともかく、大枠においてはこれは定説です。


フランク・ロイド・ライトと東洋芸術
この反動期における唯一の例外にして最も重要なものは、フランク・ロイド・ライトの建築の変遷、つまり1890年代から今日におけるその一貫した展開である。ヨーロッパの抽象絵画が近代建築に根本的な影響を与えることになるのは1920年後のことである。ライトはしかしながら、1890年代初頭のサリバンの改革に直接参画しており、1900年頃には独特の新しい建築を展開し始めていた。東洋芸術の平板な抽象要素のなかに触媒となる霊感を彼は見出したのである。日本の浮世絵は1860年代以降、ヨーロッパの画家ともども建築家によっても敬意を持たれてきていた。日本的な装飾要素はすでにイギリスのネスフィールドによって建築装飾として用いられてもいた。19世紀後半を通してしかしながら、建築における非・ヨーロッパ芸術の影響は文字通り皮相なものに留まり続けていた。というのもそれは、リバイバリストや改革者その他が表層の装飾へ注意を喚起したことから、折衷的なレパートリー範囲を単に拡げただけだったからである。
日本の浮世絵・・・ときに指摘されてきたように日本の建築からではなく・・・から、建築にとってまったく新しい抽象の可能性を見出すには、ライトを待たねばならなかった。東洋のこの版画においてはそれが描いている対象から自律し、構成上の主題の一つとして単純幾何学要素がきわめて注意深く配されていることを、彼は看取した。こうしたことは実際には、ヨーロッパとアメリカの多くの芸術家や批評家によってもすでに気付かれてはいた。ライトはさらに、この種の抽象やパターンという主題は建築において類比的に利用できることに気付いたのである。もしもライトが日本建築を単に模倣したり、それに追いつこうとしただけだったら、彼の建築は同時代の様々な他の建築家のものと本質的には何も違わないものになっていたことだろう。こうした建築家たちは建築形態の新しい概念を根本的に生み出すのではなく、過去のヨーロッパあるいは非・ヨーロッパ建築のあれこれから引き出した要素を単純化したり、様式化して用いることで、デザインの個人的手法を開発していただけだからである 。壁の鉛直平面を強調し、空中に突き出た屋根の平面を強調し、さらには外部と内部空間の相互貫入を鮮やかに示すことで、ヨーロッパ的あるいは東洋的なかつてのいかなる建築も参照することなく、アメリカの住宅建築の要素を造形的に用いる方法をライトは見出したのである。生気に満ちた抽象デザイン、そして積極的な新しい彼の感覚は、その開放的な平面計画や、それに伴う地域的な素材や工法のおおらかな表現から直接導かれたものである。コンポジションの組織を機能的要素から直接完成させることを、彼は意識的に模索していたのである。だが彼はまた自らが敬意を抱いていた日本の浮世絵における幾何学パターンと同様に、ただし今度は三次元の実際の存在物における主題として、これら諸コンポジションを一貫して確固なものとすることにも成功した。
1898年のリバーフォレスト・クラブハウスから1900-1910年にかけての有名な一連の「プレーリーハウス」の過程を通して、この方法に彼は熟達していく。斬新な手つきにもかかわらず、この頃の彼の素材や工法は概してまったく伝統的なものに留まっていた。だが新しい素材を用い始めると、着実に確立されてきた彼の原理は、単なる応用以上であることがはっきりする。実際、鉄とコンクリートの使用によって可能となった工法のために特別に定式化されてきたかのように、それらは見えるのである。サリバン事務所での摩天楼の構法に彼が親しんでいたことを考えれば、これはおそらく自然なことだった。ライトに比べればよほど機械主義的に考えていたヨーロッパの若い建築家たちが、初めてライトの作品に遭遇したときになぜあれほど興奮したのかを説明する以上のものが、そこにあるだろう。
ライトはこの頃、鉛の窓サッシュやその他の装飾的な付加物に二次元の幾何学パターンを導入し、抽象的なコンポジションが建物自体からディテールへと、全体として階層をなすようにもした。こうした装飾的なディテール、あるいはむしろこの種の装飾を使い続けたことにおいて、ワーグナーマッキントッシュといった20世紀初頭におけるヨーロッパの進歩的建築家のものに、彼の作品を近いものとしている。時代が下って1913年、ヨーロッパにおける抽象芸術が最初の頂点を迎えようとしていた頃、シカゴのミッドウェイガーデンズにおいて抽象的な大壁画や、さらには装飾的な付加物を彼はデザインしている。
だがライトをしてこの世代最大の革新者にしているのは、建築的スケールにおける装飾ではなく、その抽象デザイン原理の展開である。この時代、絵画における新しい抽象性に意識的になりつつあったヨーロッパの若い建築家たちが単に皮相な影響を受けたのとは異なり、彼の原理は根本的なものだった。1910年と1911年にドイツにおいてライトが紹介され、当地の建築家たちが彼の建築を研究するにあたって最も印象付けられたのはディテールではなく、概念における大きな変革だった。それゆえライトは、第一次欧州大戦後における抽象画家とモダンな建築家の親密な関係のための最初の道を付けたわけである。だがヨーロッパにおける近代的な抽象芸術に彼自身は何も負っていなかったことは、強調しておかねばならない。彼の建築概念はそれが現実のものとなる以前にすでに成熟していたのであり、さらにはそれまでの四半世紀において、ヨーロッパの抽象絵画や抽象彫刻に最も明白な影響を受けた傾向にある建築家の作品を、彼は非難しているのである。」
ルフレッド・バー 『絵画から建築へ』(部分/拙訳)