朝から結構な雨。
日蝕鑑賞を期待していたみなさん、残念。


(ある案件に関して)警察署に事前協議にうかがうと、「こちらへどうぞお入りください」となぜか取り調べ室に通され、手錠をお召しになられた方と目が合う。
「あぁすみません。間違えました。そっちの部屋じゃなくて、こっちでした(笑)。
ところで監視カメラをいっぱいつけてくださいよ」
「趣旨は理解しますし、たくさんあるにこしたことはないのですが、予算のこともありますので」


ある夏の日、警察のパトカーの後部座席に座っていると(もちろん容疑者とかそういうのではないです、念のため)、
「そこ臭くないですか」と刑事さん。
「はぁ」
「昨日もそこにホトケさんをのせましてね。連日の猛暑で一人暮らしのお年寄りがですねぇ、もう毎日のようなんですわ」


映画『おくりびと』に独居老人の死後しばらく時間がたった腐乱屍体を運び出すシーンがあったが、警察がパトカーを使ってこうしたものを運びだすこともあるという。今年も梅雨があけると「シーズン」が始まるのだろうか。中越沖地震でも独居老人の犠牲者が多かったときく。年金を与えて部屋に篭絡し、純粋消費者とした段階(いわゆる物象化)で、社会的にはもう半分死んでいるようなものかもしれない。

共同体が機能していたところでは、老人は「日がな一日縁側にすわって何もしない」ことで、逆説的に「監視する」という機能を果たしていたと言えなくもない。ジェーン・ジェイコブスの“eyes on the streets”コンセプトから考えると、そうともいえる。アメリカの19世紀に造られたコロニアル住宅などでは道路に面して軒の深いバルコンがあり、いかにもお年寄りがそこでロッキングチェアに座って道行く人たちを眺めたり、挨拶していただろうと思われるものもある。


与太話。英語の“window”は“wind”と“ow”からなり、“ow”はフランス語の“oeil”つまり目からきているとされる。“window”は「風」と「目(線)」が通るところということだろうか。この点でフーコーの歴史的著を敷衍すれば「窓の背後に実際の視線がなくてもその視線が内面化されれば、窓は監視の機能を果たす」ことにはなるのだが。日本語(漢字)の「窓」では「心」に「公」がのり、その上に冠/屋根がのっている。「心」が私的なものとすると、これは「私」と「公」に関しているということになるのだろうか。