アンドレ・ブルトン『超現実主義宣言』生田耕作訳 中公文庫 1999


1924年の(第一)宣言、1930年の第二宣言、1942年の第三宣言のための草稿からなる。
第一宣言では冒頭のポール・ヴァレリー批判、少し後ろのボードレールへのシンパシーにまず目が行く。また当初は「超現実主義(シュルレアリスム)」ではなく「超自然主義(シュルナチュラリスム)」となるはずであったという記述にも目が行く。
シュルレアリスムとしてまず思い浮かぶのは、第二宣言に書かれていることではなかろうか。後ろの方には長いバタイユ批判もあるが、個人的に興味のある箇所をいくつか。


「超現実主義の理念が目指すところは、われわれの精神の力を全面的に取り戻すということただそれだけであり、そのための手段は自らの内部へのめくるめく降下、隠された場所にたいして組織的に光を当て、それ以外の場所を徐々に暗闇の中に沈め、禁じられた地帯の真只中を絶えず歩きまわることであり、人間が動物を火や石から区別できるかぎり超現実主義の活動が終わりを告げるということはまずありえないのである」(100頁)
「超現実主義は現実と非現実、理性と没理性、熟慮と衝動、知識と〈宿命的〉無知、有用性と無用性、等等の概念の告発を企てる方向へ特に踏み込むものではあるにせよ、少なくともヘーゲル理論の「巨大な流産」から出発しているという点において史的唯物論とよく似た傾向を示している。否定と否定の否定にすっかり馴らされている思考操作に、限界を、たとえば経済的枠という限界を設けることは出来ないようにわたくしには思えるのである。弁証法的方法は社会的問題の解決にしか有効に適用できないという考え方をどうして認めるわけにいこうか? 超現実主義の野心は、弁証法的方法にたいして、ちっとも競争的でないやり方で、最も直接的な意識領域においても様々な応用の可能性を提供することである」(104頁)
「超現実主義がいまも標榜して止まない、より組織的なより一貫した努力が、例えば、自動記述とか夢の記録の方向とかに注がれなかったのは残念なことである」「彼らはおおむね紙の上にペンを走らせるだけで、そのとき自分のなかで起こっていることを少しも観察しなかったり—ところがこのような二重性は反省的記述の場合よりも捉えやすく、それに考察して興味深いものである---或いはまた夢の諸要素を多かれ少なかれ恣意的なやり方で寄せ集めるだけでこと足れりとしたり。夢の過程に目をくばることも有益ではあるが、それよりもその絵画的効果を活かすことの方が大切であり、このような思い違いは、当然、この種の作業に見出せるはずの利益をすべてわれわれから奪い取ってしまうことにもなりかねないのである」(128-129頁)
「さらにまた超現実主義は、われわれの言うフロイト的な意味で「貴重な能力」を所有している人々が、今しがた彼らが辿るのを見たのとは逆の途を通って、〈霊感〉というとりわけ複雑な仕組みを新たな観点から考察する仕事にたずさわることを要求するのである」(133頁)