KAREL TEIGE/1900-1951 L`ENFANT TERRIBLE OF THE CZHECH MODERNIST AVANT-GARDE
Edited by Eric Dluhosch and Rostislav Svacha、 Introduction by Kenneth Frampton、 The MIT Press 1999


チェコアバンギャルドカレル・タイゲについてのアンソロジーである。タイゲの論文「ポエティズム」および「モダン・タイポグラフィー」などの英訳を併載。序文はケネス・フランプトンによる。
チェコアバンギャルドが再び知られるようになったのは1989年のベルベット革命以降、ただしタイゲの再評価はチェコ国内ではそれ以前から始まっていたという。個人的には二つの点に興味がいく。
ル・コルビュジエ」を正史とする近代建築史では、タイゲはCIAM近代建築国際会議)やムンダネウム論争においてル・コルビュジエにいちゃもんをつけたような扱いになっているが、それは「いちゃもん」であったのか。
1939年にチェコナチス・ドイツに併呑されるとタイゲらアバンギャルドは公的活動の道を閉ざされ、戦後共産党政権下において一時的に「進歩的」と見做されたものの、一党独裁政権下において再び公的活動を閉ざされ、晩年のタイゲは廃人同然となり51年の生涯を閉じた、という評価の妥当性。
この二つである。
まず初期タイゲの「ポエティズム」論文を一読すると、「ポエティズム」概念は即自的なものではなく「コンストラクティビズム」の対概念になっており、伝統的な西洋哲学における「プネウマ」(気)と「ロゴス」(理)の対概念のそれぞれ敷衍と読める。「コンストラクティビズム」はロシア・アバンギャルドの「コンストラクティビズム」概念の輸入によるものと思われる。また19世紀とは雑多なイズムの時代であり、明確なスタイルを欠いていたという時代認識は、同時代アメリカの論者たちのものと同じである。いずれにせよタイゲにとって建築はコンストラクティビズムに属し、これはロシア・アバンギャルドだけでなく、ドイツのノイエザハリヒカイトとも近かったといえる。
ムンダネウム事件あるいはムンダネウム論争はそれゆえタイゲ単独によるものではなく、オランダのマルト・スタム、ドイツのハンネス・マイヤーソ連のエル・リシツキーらと歩調をあわせたものであったという。
ドイツ語におけるArchitektur /Baukunst /Bauの三層構造はシンケルの時代にはすでにできていた。ドイツ工作連盟(Werkbund)以降議論されるのはArchitekturよりBauであり、デッサウに設立されたのも建築大学(Architektur Academie)ではなくあくまでバウハウス(Bauhaus)であり、戦後ハイデッガーがヴェルクブントにおいて語るのもArchitekturではなく、バウエンについてであった。
バウハウスの二人の校長、ハンネス・マイヤーミース・ファン・デル・ローエの考えはともに、この概念上にあったと言える。マイヤーにとってバウはノイエザッハリヒカイトにおける概念であり、またミースにとってはバウの最良のものがバウクンスト(Baukunst/建物芸術)となる、というものだった。ミースの思想としてバイナーエ・ニヒツ(Beinahe Nichts)があるが、この考えほどル・コルビュジエならやるだろうモニュメント性から遠いものはなかろう。彼らのこうした概念は建築、あるいは反・建築的建築とでも言うべきものだったようにに見える。ミースは議論には加わらなかったが、バウハウスやオランダや東欧系の建築家たちと、「建築は芸術である」「建築をめざして」と早々と語っていたル・コルビュジエとでは、最初から目指す方向が根底的に異なっていたわけである。文化の相違もあったかもしれない。
タイゲは当初ル・コルビュジエの作品を高く評価していたが、やがて鋭敏にもそこに古典主義の残滓を嗅ぎ取っていく。古典主義の残滓だけでなく、換気や日照を優先すべきと考えられるところで造形を優先するのもフォルマリストに見え、さらにサロン・ドートンヌでの『300万人の現代都市』計画では意図してかどうか土地の投機的価値をも勘案しているように見えたという。
「モニュメントではなくインストゥルメントを」と唱えていたタイゲたちにとって、「ムンダネウム」はあり得ないものだったのである。
本書に引用されているハンス・シュミットの一文では、CIAMは各国からくる若いメンバーたちに従い、もはや公然とそのマルクス主義的基盤を認めるべきだろうか、それとも自律した組織としての活動を続けていくべきだろうか、といったCIAM内部の不協和音について述べられている。この時点までCIAMはその影のようにタイゲに従っていた、とも述べられている。タイゲは声がでかかったのだろう。CIAMを仕切っていたのはギーディオンやグロピウスたちだった。彼らがどう采配したかはよく知られている。フランプトンと論者はしかし、ナチの政権獲得や、アメリカ発の大恐慌の影響がヨーロッパにもじわじわと現れ、建築家たちはそれどころではなくなってきていた、という当時の社会・経済状況の反映も見ている。けっきょくドイツやオランダや東欧のマルキストの建築家たちがCIAMから退いていったあと、イタリアからのファシスト建築家の存在感が増し、このドサクサにまぎれてル・コルビュジエが地中海に軸足を移して『アテネ憲章』をまとめたことも、よく知られている。ここまでのCIAMではしかし、高層か低層か、高密度か低密度か、片側接道か両側接道か、陸屋根か勾配屋根か、戸建か集合住宅か、といった主要な主題や、テクノロジー、家族/住宅、現代都市、といった主要なプログラムが議論されており、実質的な議論の場としてのCIAMはじつはこの時点ですでに終焉したのかもしれない。
タイゲに最も近かったのはハンネス・マイヤーバウハウスであったという。タイゲはマイヤーに招かれバウハウスで文学とタイポグラフィーについて講じ、またマイヤーをチェコアバンギャルドのサークルに招いている。のちにアメリカに渡ったミース・ファン・デル・ローエが仕事に恵まれたのに対し、同じくのちにソ連に向かったマイヤーが仕事に恵まれなかったことはよく知られている。しかしたんに仕事に恵まれなかったのではなく、スターリンの登場によって当地ではアバンギャルドはみな冷飯を食わされはじめており、ソビエトパレス・コンペにおけるボリス・イォファンによる新古典主義風の案の採用はまさにその象徴的な転回点となったのだった。このコンペの結果はマイヤーをしてモスクワを去らせ、タイゲをして建築に失望させた、という。
建築に失望したタイゲが向かったものとして述べられるのが、シュルレアリスムである。1930年代後半、タイゲはパリのアンドレ・ブルトンらに接近し、いっぽうでプラハ言語学サークルの構造主義言語学者ヤン・ムカジョフスキーに接近している。
晩年のタイゲは374枚のフォトコラージュを制作し、その一部は「シュルレアル・ランドスケープ」と名づけられたという。ある論者はここにヘーゲル的観念論とマルクス唯物論と仏教超越主義のアマルガムという、晩年のタイゲがいたった境地を見出そうとしている。ル・コルビュジエであればムンダネウムにおいてそうしたように、あるいは晩年その傾向を強めていったように、モニュメントといういささかポピュリズム的なやり方で行ったものを、タイゲはシュルレアル・ランドスケープというあり方で行ったとも言える。タイゲの「園中園」という謂いは西谷啓治の世界への主体のあり方を述べた言葉を髣髴させ、また近年お目にかかる“built environment”とか“cultural landscape”といった言葉をも、彷彿させるかもしれない。