チャールズ・ダーウィン種の起源(上)(下)』八杉龍一訳、岩波書店1990


チャールズ・ロバート・ダーウィンを読んだ。
18世紀のひとの書いたものはほのぼのしており、それに対して19世紀のひとの書いたものは世知辛いという印象があって、ダーウィンは後者の典型ではないかと考えていたのですが、かならずしもそうではない。

19世紀は生物論モデルの時代で20世紀は機械論/構造論モデルの時代であった、といった説明がなされることがある。その19世紀生物論の代表とされる言説と、20世紀の機械論/構造論の契機となった言説を比較すると、じつはよく似ていることに目がいく。
モンジャン・フェルディナン・ド・ソシュールの一般言語学はのちに構造主義と呼ばれる思潮の基となったと言われる。フンボルト流の言語有機体説を退け、それまでの比較言語学と言語史を共時態と通時態として一般化/構造化した、とまず説明される。このときにソシュールが樹木の幹の比喩を用いたのは19世紀生物論モデルや有機体モデルの残滓を引きずっているのではないかという指摘は、しばしばなされてきた。ダーウィンの『種の起源』前半の種の説明を読んでいくとしかし、残滓というより、より多くの点でそこに共通点を見出すことができるように見える。
まず種と個体概念と、ラングとパロール概念の並行性である。ダーウィンの説では種の変化は個体の遺伝とその自然選択による蓄積からくる緩徐的変化とされるが、ソシュールにおいても、ラングの変化はパロールの偏差の蓄積からくる緩徐的変化とされる。
ダーウィンの種に起こるのは分岐、絶滅、変化(進化)である。また種の上位概念として属、さらにその上位概念としての科、種の下位概念としての亜種や変種、また種/属の通時態としての綱、その綱から分岐した種による群などによって、系統樹形が描かれる。種と属を同クラスで用いたり、科と属を同クラスとして用いている箇所もあるのでどこまで厳密なのかしかし、だいたいこう体系化できる。一般言語学においてはこうしたことは、ラングの上位概念としての語族や下位概念としての方言として敷衍できるし、明確には述べられないが、言語にも分岐、絶滅、変化(進化)はあるだろう。
もっとも生物にあって言語にはないもの、つまり大きな相違に生殖がある。ダーウィンはミミズのような雌雄同一体においても生殖において二つの個体の交接があるとしている。ところでソシュールの一般言語学パロールの説明においては、糸電話で繋がれたような二人の人物の挿絵が登場する。発話者の言葉が受話者に聴覚映像として受けられ、そののち了解されることを示した図である。パロールパロールが交接するわけではないが、パロールの偏差が生じるのはここにおいてである。つまり発話者が聴覚映像に変換する過程、および受話者が聴覚映像から変換する過程において、その内容がまったく同一であるとは限らない。
ダーウィンの学説は天地創造説のような種を固定したものとする考えを、まず否定するものだった。あらゆる種は緩徐的に変化、分岐、絶滅してきたのであり、つねに何らかの種があり続けたのであり、いまこの時点もその過程にあり、いま見ている諸種はある時点における状態、つまり共時態であるとする。自然は飛躍しない、種は緩徐的に変化していくというダーウィンの種に対する根本認識は、言語に革命はない、言語は緩徐的に変化していくというソシュールの言語に対する根本認識とほとんど相同的である。
ところで日本語版の『種の起源』では「進歩(進化)」という言葉が登場するのは三箇所、どれもスペンサーの「生存闘争」という言葉が導入される1/3以降である。種の緩徐的変化や自然選択が述べられる冒頭各章では、種が環境に適応し、存続していくことが主眼であるように述べられるが、1/3を過ぎたあたりから種は同群他種に対して有利な位置を占めようとする、より積極的な変化をしているような記述へと変わっていく。「私の想像では、カッコウのひなが義理のきょうだいを巣から押しのけるのも、アリが奴隷をつくるのも、ヒメバチ科の幼虫が生きた毛虫の体内でそのからだを食うのも、これらすべてを個々に付与された、あるいは創造された本能とみなすのではなくて、あらゆる生物を増殖させ、変異させ、強者を生かし弱者を死なしめてその進歩にみちびく一般的法則の小さな結果であるとみなすほうが、はるかに満足できるものである」(上、315頁)、「第二紀の動物相あるいは植物相は、まちがいなく、負けてほろびてしまうであろう。この改良の過程がより新しい、勝利をおさめた生物の体制を、古い、うち負かされた生物と比較して顕著に変化させたということを、私はうたがわない。しかし、こんなふうな進歩をどうやってしらべたらよいのかは、私にはわからない」(下、77頁)、「自然選択はただおのおのの生物の利益によって、またそのために、はたらくものであるから、身体的および心的の天性はことごとく、完成にむかって進歩する傾向を示すことになるであろう」(下、261頁)。
種は緩徐的に変化するとすれば無数の中間種が見出せないのはなぜかという疑問への説明が、この生存闘争と絶滅説に求められる。
またこの同じ疑問を説明するのにダーウィンはチャールズ・ライエルを引きながら、まるまる一章を地質学の説明にあてている。たとえば「おなじ岩層の上部と下部にある二つの種類のあいだにおける完全な段階的際をみとめうるためには、堆積は、変異の緩徐な過程がおこるに十分なだけのひじょうにながい期間にわたって、たえずつづけられていたのでなければならない。それゆえ堆積は一般にひじょうに厚いものでなければならず、変化をこうむる種はおなじ地域に全期間をつうじて生存していたのでなければならない。しかしわれわれはすでに、化石の豊富な厚い岩層は沈下の期間にのみ堆積されうるのであることを知った。そして、おなじ種がおなじ地域で生活できるためには深さがほぼ一定にたもたれることを必須とするが、そのためには沈積物の供給が沈下の大いさとほぼつりあわねばならない。ところが、この沈下運動そのものが沈積物ができるもとの地域をしばしば水面下にしずめることになるから、低下の運動がつづくかぎりその供給はへってくる。事実として、沈積物の供給と沈下の大いさとがほぼ正確につりあうということは、たぶんまれにしかおこらない偶然である」(下、26-27頁)といった感じである。一見この唐突な章はダーウィンの考えが地質学/博物学から発展してきたことを反照するようであり、もっといえば19世紀のこうした思考の前提にはたとえばミシェル・フーコーの『言葉と物』でタクシノミアとか分類学と呼ばれている18世紀の思考があったように見えなくもない。このおなじ章のうしろの方では、またこうも述べられる。「ある生物を何か新しい生活の道に、たとえば空中を飛行することに適応させるには、ながい時代を必要とする。しかし、いったんそれに成功し、少数の種がそれによって他の生物にたいして大きな利点をえたなら、わりあい短い時間でそれから変化した多数の種が生じ、そしてそれらの種類は急速にまたひろく世界中にひろがっていくことができる」(下、35-36頁)。
種の変化は緩徐なものではある。しかしいったんある閾を超えると、そのごの変化は劇的となるのだろう。
ところでここで種の変化と呼ばれているものの根底には、ワトソン=クリック・モデルとして表現されるDNAがあることは今日ではよく知られている。生物現象と呼ばれているものは裏を返せばDNAの言語活動の結果であるのかもしれない。むかし読んだ『DNAと遺伝情報』(三浦謹一郎、岩波書店1984)では、DNAの二重螺旋は生殖に際していったん開いて全部で四重螺旋となり、そのご再び閉じて新しい二重螺旋を形成するとされていたように思う。DNA情報のこの組換えは順列組合による偶然の産物であっても、それが種に有利であれば緩徐的に変化し、蓄積されていくことになるのだろう。単純な複製、クローンではもちろん、そうした緩徐な変化はない。さらにこの情報を人為的に書き換え得るとしたら、どうだろう。あるいはクローン牛が生産可能ということは、技術的にはいずれクローン人間も生産可能ということになる。あるいは成長や老化のプログラムを探し出し、その情報を書き換えれることができれば、成長や老化の速度を調整することも可能なのかもしれない。さらに「自然死」とは概念であるとすれば、身体の可塑性/可逆性を一定水準以上劣化しないようにしてしまえば、死なない/死ねない動物/人間も生産可能かもしれない。19世紀の育種家がやったことを新しい方法で効果的に行うこと。
もしも少子高齢化対策として、強壮でよく働き老化もしないクローン人間を21世紀のどこかで生産したとすれば、20世紀における核兵器の使用に匹敵するほどの価値観の転倒をもたらすことになるかもしれない。


とまぁ、さいごは与太話となりましたとさ。