Denis Hollier Against Architecture, The Writings of Georges Bataille、trans.by Betsy Wing The MIT Press 1989


後半部分は建築よりアブジェクトアートに関係していると言える。“abject”も“inform”も1990年代以降、建築の主題のふたつではあるが。
デニス・ホリアー(ドゥニ・オリエ)の『反建築』という題をもったジョルジュ・バタイユ論の英語版は1980年代末に出版され、バーナード・チュミ(ベルナール・チュミ)に傾倒していたアメリカの建築学生のあいだでは1990年代に入ってもよく読まれた本のひとつであった。中間をなす章のタイトルは「迷宮、ピラミッド、そして迷宮」となっており、チュミの論考にも似たようなタイトルをもったものがあったように思う。序文ではそのチュミが関係した1980年代を代表する建築作品のひとつであるパリのラビレット公園計画についても触れられている。
柄谷行人は『ANY』のシンポジウムで「脱構築主義のはじまりは、既成左翼/構造主義批判にあった」と述べていたように記憶するが、著者も似たようなことを述べている。ここで述べられていることの発端は1972年に始まると序文には書かれており、時代的にいえばフレドリック・ジェイムソンウィンダム・ルイス論やT.J.クラークのギュスターブ・クールベ論などの登場とほぼ同じである。すでに慣れてしまったからかもしれないがしかし、ジェイムソンやクラークの論に比べると、いささか平板という気もしなくもない。また建築論として読むとその一面においては1960年代に兆候を見せ始め、70年代と80年代において主流となり、無効にはならないかもしれないがしかし、もしかしたら今日終息しつつある潮流に位置づけられるのかもしれないし、別の面では1970年代のピーター・アイゼンマンのコンセプチュアル・アーキテクチュア論から、本書が読まれたであろう80年代、および90年代のケネス・フランプトンの「結構」をめぐる議論をへて、2000年代のふたたびアイゼンマンによる建築の自律性をめぐる議論に続く文脈においても、読まれ得るのかもしれない。
建築の起源はなにかという議論は古くからあった。たとえば建築の起源は洞窟であるという議論はカトルメール・ドカンシーにまで遡行できる。バタイユは建築とは社会の正統化された超自我であり、その起源は監獄であると考えたという。この「監獄」や本論で検討されるカトリック/宗教、そしてバタイユの「無頭」も、精神分析的にいえばすべて去勢のあり方ではなかろうかと、先取的に言うことはできるかもしれない。
序文では著者の視点が明快に述べられている。コンコルド広場の春のカーニバルを楽しげに描くエミール・ゾラや、ゾラとは対比的だが同広場の同カーニバルにおいて黙考するユーゴーやシャトーブリヨンと対比的に、ルイ16世がかつてここで1月に処刑された冬のカーニバルとして、バタイユのものはあるいという。バタイユとほぼ同時代に登場しそこにおいて誰一人として「私」とは言わないバフチン/ラブレーの「カーニバル」とも、これはまたずれているという。バタイユのカーニバルとは、欠如/喪失の時間を当の欠如/喪失が欠如/喪失して生きることにあり、これは充溢の時ではなく時間の空虚が経験される時間であり、無辜が見出される時間でなくむしろ底なしの罪が再発見される時間であり、それはいわば亀裂や穴であるという。バタイユのこの議論から補助線を引かれる建築家は、アドルフ・ロースである。
バタイユはコジェーブ経由でヘーゲルに影響されており、「ヘーゲルのedifice」と題された章ではヘーゲルの『美学』での有名な記述が脱構築され、続く主論の「建築の隠喩」へとつながっていく。
“architecture”の“arch”は“arche(始原)”でもありそれゆえ「建築は芸術の起源でなければなら」ず、いっぽうで芸術は何かの手段ではなく“telos(終点)”であるとするなら、“arche=telos”という図式、つまりそれが起源でありそれが目的でもあるような建築/芸術とは「バベル」なのだという。宗教建築もまたその内部空間を「信仰」のために供する以上はその外皮としての建築はここから除外される。この論理展開は続くバタイユ論において「信仰の罠」として述べられていく。
「建築の隠喩」と題した主論の冒頭では、バタイユの処女作である「ランスの大聖堂」がまずながながと引用される。導入部においてジャンヌダルクの話が引かれ、続いてドイツ軍の侵攻がいわれ、最後に大聖堂を称えるこの一文は一読すると熱狂的なカトリシズムと愛国主義を表明しているように見えるものの、著者はここに精神分析的なテキスト読解をかける。
戦争が始まった1914年、17歳になろうとしていたジョルジュは敬虔なカトリック教徒となる。これは彼の無宗教であった父の「父殺し」であり、そのことはこの一文のなかの「(私は)生れ変り、神が与えた幸福のなかにある」に挟み込まれていると見る。いかに陳腐な比喩であっても教会は母性的なものとしてあり、そしてここで描かれている戦争は「父の名」と同義かつ父性の属性としての不信心や無宗教の結果であるという、このあたりの精神分析的テキスト読解の手つきはじつに興味深い。母性としての教会という主題は、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』読解でも繰り返される。
また大聖堂建築は世界の解読装置としてあり、それも世界があって建築があるのではなく建築があってはじめて世界は読まれるとされ、ここからアーウィンパノフスキーの歴史的名著『ゴシック建築とスコラ哲学』が批判的に読まれる。パノフスキーの同書では12世紀ゴシック建築と『スンマ(神学大全)』の構造がその形式とディテールにおいて一対一対応のものとして解読されるが、これは文字通りの相同論/類比であり、また聖堂においてはその形式のみが取り上げられ、実際の工法や素材特性はまったく省みられることのないパノフスキーの議論自体が、トマスの議論と相同的、つまりスコラ的であると批判されるわけである。
これとは別の角度からバタイユと比較されるのはマルセル・プルーストである。「ランスの大聖堂」のバタイユにとって教会を脅かしているのは戦争よりも不信心と無宗教であり、なおかつ聖堂の美はパノフスキーの形式的相同論とは異なって、そこに集うひとびとの信仰と分かち難く結びつくものであった。プルーストの美学にとってはしかし、芸術とは宗教が去ったあとの残滓であるという。
中世を通してフランスのカトリック教会は、教区民をカトリックとして教化するとともに、結果的に信者をのちの「国民」へと形成していく役割を持っていたという。1904年のブリヨン法(政教分離法)によってしかし、パリはバチカンから完全に袂を分かつこととなり、その結果数多くの教会が閉鎖に追い込まれ、絶えていったという。ブリヨン法に反対していたプルーストにとって「失われた時」とはかつての信仰の時であり、つまり子供時代であり、中世でもあり、プルーストの試みとはそれゆえかつて宗教によって担保されていた不朽を回復しようとするものであり、そうである以上それを実現しようとすれば多くの点で歪曲を伴うであろうことに、バタイユは敏感だったという。
うしろの方で大文字の歴史との関連で語られるバタイユの「時」、「侵犯は歴史から逃れるわけではない。進歩という範疇においては考えられないものだが、そうであってもそれは無・歴史ではないのである。その不連続的な区切りが一方通行で連続的な進歩を凍結する、そうした破断的出来事を通してである。古代においても、それゆえ中世においても、歴史の起源においてさえも、そうである。歴史はこの意味でまさに神学的であり、死を隠蔽する仮面の累積として展開する」(54頁)といったくだりなどは、ベルクソン/ドゥルーズ的な「時」との親近性を持っているのではないだろうか。