マルティン・ハイデッガーハイデッガーの建築論、建てる・住まう・考える』中村貴志訳・編、中央公論美術出版、2008


「橋は、大地と天空、神的なものと死すべき者を〈自らの〉仕方で〈摂り集める〉。われわれの国語の古語によれば「摂り集めること(Versammlung)」は〈物(Ding)〉といわれる。橋はひとつの物である-しかも、あの四者の会域の特に際立った集摂〈として〉」(24頁)
「物とは、そのような有り様の場所である。その場所が、そのつど初めて種々の空間を受け容れる〈空間〉という語が示すことを、その古い意義が言い表している。ラウム(空間)の古い形はルム(間)であるが、それは、移住や野営のために自由に開かれた広場という意味である。空間とは、何らかの「空け渡された開け」であり、「自由を与えられたその広がり」である。空間は、つまり、ギリシア語でぺラスといわれる境界の内に開かれる。この境界は、そこで何かが停止するような限界ではない。そうではなく、ギリシア人が認めていたように、そこから何ものかの〈本性が現れ始める〉その境界である」(27頁)
「ひとつの立脚地を場所として与える物、それを先取りして、今、建て物と名づけよう。それを建て物と呼ぶのは、さまざまなものを構築するあのバウエンを通じてそれが産み出されるからである。けれども、その産-出、つまりバウエンが、いったいどのような有り様でなければならないか。それは、さまざまな物の本性を予め考慮した時に初めて学びとられる。さまざまな物が組み立てられるために、それらが自ら、産-出としてのバウエンを求めるのである」(28頁)
「そのような物を現に産み出すこと、それが、建てるということである。建てることの本性は、これらの物の有り様に応じることにある。物というのは、さまざまな空間を受け容れる場所である。建てることは、そのような場所を設立するのだから、種々の空間を樹立してそれらを繋ぎ合わせる。建てることがさまざまな場所を産み出す時、種々異なる空間がそこに組み合わされる」(37-38頁)
「「大地を救い出し、天空を迎え入れ、神的なものを待ち望み、死すべき者が(それらに)付き随うこと」、この四重に折り重なった保護が、住まうことの唯一の本性である。そのようにして、本来の意味の「住まうこと」が真の建て物に刻み込まれ、住まいの本性がそこに宿る」(38-39頁)
「建てることの本性は、住まわせることである。建てることを真に成就すること、それは、種々異なる空間の接合を通じてさまざまな場所を設立することである。〈われわれは、ただ住まう能力をもつかぎり、建てることができる〉」(41-42頁)
「住まうことにとって、「建てること」と「考えること」はそれぞれの有り様で常にある不可欠である。しかし、この二つが互いに耳を傾けることなく個々別々に行われるかぎり、それらはいずれも「住まうこと」には至らない。それが可能なのは、この二つのことが、共に、住まうことに属している時である。そして、それぞれの境域に留まりながらも、次のことを心得ている時ある。つまり、「建てること」と「考えること」、それらはいずれも同様に、長い経験と絶え間のない修練のアトリエから生まれてくる」(44頁)


ケネス・フランプトンゴットフリート・ゼンパーの「結構」概念を敷衍するにあたって後期ハイデッガーの論考から説き起こした理由が窺われるようである。
うしろの解説で触れられているが、この有名な論考はもともとは1951年のドイツ工作連盟主催の講演がもとになっており、その意味ではほんらいは特定の目的のために特定の聴衆にむけて語られたものだったという。
また古ドイツ語の“Bauen(建てる)”には「耕す」という農業的/文化的意味があったことや、同じく古ドイツ語の“Ding(物)”には「集める/集まる」という意味があったことを念頭においていないと、読み誤ってしまうのかもしれない。