「『四要素(Die Vier Elemente)』は1851年に発表されたが、これはちょうどゼンパーがロンドンに身を落ち着けようとしとしていたときだった。クリスタルパレスが工事中であり、ゼンパーはヘンリー・コールに仲介者を通して紹介されている。コールはゼンパーに博覧会の展示の仕事を斡旋した。ゼンパーはトルコ、カナダ、スウェーデン、それにデンマークのためのレイアウトを準備し、これによって博覧会建築に特別な出入りが可能となった。マオリ人の装飾デザインやアフリカ人の草スカートと同じく、彼は北米先住民の工芸品に感心している(He was much impressed with the artifacts of the North American Indians, as he was with Maori decorative designs and African grass skirts)。この展覧会でトリニダードから出品されたみたところ原始形態をした「カリブの」小屋が、彼の四要素・理論のモデルに完全に合致していることを、ゼンパーは見出した。炉は丸太構造の上にのせられ、葦屋根は竹のフレームで支持され、壁の毛氈は屋根の支持材のあいだに垂直に掛けられている。「構法のすべての要素がみずからを語っており、ほかから独立している」。彼は同様に、ドイツで見慣れていたものよりさらに進んだ最新の工具や機械装置・・スチームハンマー、ベッセマーポンプ、ボイラー・・にも感心している(He was no less impressed with the latest industrial implements and machinery--steam hammers, Bessemer pumps, boilers--which were in advance of what he was familiar with in Germany)。
この展覧会への魅惑から出てきたものがその著作『科学、工業、芸術(Wissenschaft, Indutrie, und Kunst)』であり、これを彼は1851年秋に書いている。ここで期せずして彼はみずからの理論を巾の広いものとしたわけである。それは当時の建築生産の危機=転回を見ることになったからだが、しかしその危機=転回は諸理念からではなく、工業化プロセスにによってもたらされた仕事場の「ある諸変化」からであった。工業化は相応の「手段の横暴」とともに、人間の手仕事という労働に基づいてきた伝統的な活動を破壊あるいは価値の低いものとしつつあった。しかしゼンパーにとっては・・ラスキンとはまったく逆に・・既存芸術のこの解体は悲しむべきことではなかったのである。事実それは当時の状況からの出口を明らかにしたからである。「借り物のあるいは盗用の」諸モチーフの繰り返しではなく、「なにか新しく良いもの」が登場することを可能にする出口である。ゼンパーはそれゆえ当時の建築の危機=転回は経済的なものでも社会的なものでもなく、スタイルの問題であると論じたのだった。」
Harry Francis Mallgrave, Modern architectural theory: a historical survey, 1673-1968  Cambridge University Press, 2005、p134-135, 拙訳


ゴットフリート・ゼンパークリスタルパレスをみて感心したと思われる。
「スタイルの問題」はジェイムソンが論じるように近代の問題でもある。このモチーフは柄谷行人の「風景の発見」にも関連する。ジェイムソンも柄谷も、もちろん文学において語っているのであるが。