Fredric Jameson, FABLES OF AGRESSION, Wyndham Lewis, the Modernist as Fascist, University of California Press, 1979


14年前にある人に「読め」といわれてそのままにしていたフレドリック・ジェイムソンの1970年代の著作である。
建築史家・建築理論家のK.マイケル・ヘイズはジェイムソンにおおきな影響を受けているが、単に影響を受けたというだけでなく彼のハンネス・マイヤー論やルートヴィヒ・ヒルベルザイマー論は、ジェイムソンのウィンダム・ルイス論をほぼパラフレーズしたもののように、本書を一読したところでは思えてくる。序文の初出は1973年の『ハドソン・レビュー』誌となっており、当時としてはこの一文はかなり画期的なものだったのではないだろうか。
ラカン精神分析やC.G.グレイマスの意味論的四角を用いた分析装置と方法(これはK.マイケル・ヘイズのマイヤー論でも使われる)、「ザ・リアル」をカントの「物自体」ではなくアルチュセールの大文字の歴史(History)・・コジェーブからきているのだろう・・から捉える視点、ついでにいえばドゥルーズ+ガタリの「モル的/分子的」といった概念など、こんにちポスト構造主義と呼ばれている諸概念が縦横に駆使されているそのさまは、従前の批評とはかなり異なるものだったはずである。
その方法が新しいだけでなく、それまでの文芸批評に対するスタンスのとり方も特徴的である。既成モダニストやリベラルな読者には不快かもしれないがという挑発的な謂いにもそれは窺われるが、ジェイムソンはここで既成左翼のイデオロギー批評に批判をくわえ、彼が「プロトファシスト」と呼ぶルイスの作品を評価しているからである。いかなるマルクス主義批評もそれを望み、そしていかなるマルクス主義批評もなし得なかったことをパーシー・ウィンダム・ルイスの作品はなしており、さらにアルチュセールを援用し、おおいなる芸術作品はその構成素材であるイデオロギーを超越し破壊もする、とさえ述べている(ジェイムソン、若い)。既成モダニズム/既成左翼を批判するにあたってプロトファシストを評価するという戦略なのかもしれないし、戦後タブーとされたジュゼッペ・テラーニのような建築家の再評価などとも同時代的なのかもしれない。
既成モダニズム/既成左翼批判はもちろん、ジェイムソンの歴史認識からもきているといえる。20世紀後半のポストモダン時代においてはモダニズムがいまや規範となり、またモダニズムがかつて持っていた破壊力はそこにはないという認識であり、これはのちの『ポストモダニズム、あるいは後期資本主義の文化論理』におけるものとほぼ同じである。
ジェイムソンは20世紀のマルクス主義批評をふたつに整理している。ひとつはルカーチ流の物象化批判、商品化批判であり、これは初期マルクス疎外論の延長にあるものであろう。もうひとつは、アングロアメリカアバンギャルドやロシア・アバンギャルド、それにフランクフルト学派やテルケル派のマルクス主義批評である。ジェイムソン自身はもちろん後者に属している。建築史家でいえば、ケネス・フランプトンは表面上はルカーチを批判しフランクフルト学派への親近感を表明しているものの、その論調はむしろどちらかといえば前者のものに近く、K.マイケル・ヘイズビアトリス・コロミーナらはどちらかといえば後者のものに近いといえる。
前者の批評、というより20世紀の一般的なマルクス主義批評の決定的な限界は、美学理論を発展させることができなかったという点が、まず指摘される。ここでジェイムソンは18世紀ホイッグ保守派のエドマンド・バークを召喚する。その論点はじつに明快である。「この意味でエドマンド・バークによるジャコバン批判が独創的なものとして読まれ得る。これはたんなる社会革命批判ではなく、新しいブルジョワ社会生活批判をも先取しているのである。つまりのちの19世紀文化におけるロマン主義保守主義、そしてさらにそれらの焼き直しである(20世紀の)マルクス主義における疎外や商品化や物象化批判を、(バークは)先取的に批判しているのである」(18-19頁)。ここでルイスがバークに重ね合わせられ、フランクフルト学派の美学理論、「作品の美的価値とは経験存在の頽落した世界、物象化した表面、それに現状維持といったものへの組織的・形態的な拒絶に直接に比例している」へと接続されていく。付け加えるとこの「フランクフルト学派の理論」は、ハイデッガーの美学理論とも近いのではなかろうか。
ジェイムソンは文化的・イデオロギー的現象としての「プロトファシズム」を4つの構成要素/段階として分析する。大雑把にいって1、マルクス主義に対する反動、2、しかしその展開は実際のマルクス主義の危険からではなく、リベラリズム保守主義カトリック社会民主主義といったさまざまなミドルクラス・イデオロギーの解体と、そのことを自覚的に認識したうえでのこれらミドルクラス・イデオロギー批判およびその表象システムである議会制批判からきており、3、それゆえ1と2の構造的不一致によって両義的空間が形成され、そこで資本主義批判が古典的プチブルイデオロギーの方向へと置換され、4、最終的にこの根無し草で浮動的態度は大衆主義において顕現され、新しい集団主義を表象する。この点においてカエサル主義(カリスマによる乾坤一擲)ではなく、これはレーニン主義/ボルシェビキを模倣し、その反動であるという。アドルノ(+ホルクハイマー)の『啓蒙の弁証法』からペーター・スローターダイクの『シニカル理性批判』までが述べるように、ファシズムとは近代的で都市的現象というわけである。
そして第一次大戦という事態が、このことを文学において決定したのだとジェイムソンは論じる。19世紀国民文学という物語構造を担保していたヨーロッパの外交システム=国民国家システムがこの戦争で根こそぎにされ、共産主義ファシズムという二つの超・国家主義陣営の台頭をみたからであるという。
第五章の「ナショナル・アレゴリーからリビドー装置へ」ではこのことがより詳しく述べられている。ルイスはモダニストであり、コスモポリタンであり、反共主義者であり、そしてジェイムソンによれば「ファシスト」であった。
第一次大戦に前後して書かれた小説『ター』は、主要登場人物がドイツ的、ロシア的といった国民文学や国民国家のキャラクターを寓意として負いながら登場はするもののしかし、この時代のコスモポリタンで多言語的な場面において「寓意は一対一対応の静的解読であることをやめ」「シニフィエシニフィアンのあいだに独特の寓意空間をあけ、ここにおいて『シニフィアンは別のシニフィアンのための主体を表象する』(ラカン)」(91-91頁)。小説『ター』の4人の登場人物はここでいったん「リビドー装置」(リオタール)と呼ばれるマトリックスに挿入され、これがグレイマスの意味論的四角形として整理される。リビドー装置とは「空の形式あるいはマトリックス構造であり、イデオロギー的・精神分析的双方の意味において浮遊するいまだ形をもたぬ幻想がそこに挿入され、すぐさま固定され、その表現形式を見出すもの」(95頁)と説明される。



ルイスの反フェミニズムが説明されるのもここにおいてである。女性原理の対にあるのは男性中心主義(D.H.ロレンス)ではなく“inhuman”であり、空虚な「屍体」(ルイス)なのだという。この論はハル・フォスターのシュルレアリスム論でもある『ザ・リアルの回帰』やK.マイケル・ヘイズのポストヒューマニズム論を先取するものであろう。
ヘイズの「ポストヒューマニズム」との親近性を見るなら、ほかにもある。たとえば第一章において述べられるルイスの“hypallage”と呼ばれる修辞法である。これは換喩と隠喩の二つの修辞を組み合わせたものであるという。たとえばある登場人物の換喩として「自然」が使われ、しかしその人物は盲目であるという続く隠喩にすぐさま接続される。いわば二重の手続きによる無化である。そこにあるのはたとえばロマン主義がやるような「自然」への思い入れではなく、かといって未来派がやるような「自然」に対する機械やテクノロジーといったあり方でもなく、自然=機械というありあり方であり、これはまた同時代のジェームズ・ジョイスとも対をなすものであるという。


まぁいずれにしても、(かつての)アメリカの文芸批評は読み応えがあるよ。