汐留ミュージアム村野藤吾展に行く。
「あぁお金がかかっているなぁ」と思う。もちろん展覧会にではない。村野の建築にである。そのうえ村野事務所の設計料は総工費の30パーセント程度だったというから、かつての大阪のタニマチの凄さを見るようでもある。こんな時代はもう来ないのだろう。CGのBGMとして流れるマーラーアダージョがなんとも切ない。
モダニズムを骨格としながら、キッチュすれすれのデザインをやる。大衆の集団的無意識といったものを掴むようなデザインでもある。「売れるデザイン」ともいえるが、思うほど簡単ではないと思う。
戦前の村野には「様式の上にあれ」という論文があった。20世紀初頭の「様式」概念はイギリスやフランスの覇権と結びついており、日本やイタリアといった後発近代組は「我国将来の様式は如何や」などといった議論を展開していたのだった。商都・大阪にあった村野はそうした「様式論争」に「それがどうした」と言ったわけである(だっと思う。うろ覚えだが)。こうしたスタンスはむしろ渡辺節から来ているのかもしれないし、ヨーロッパ的な“architecture”より、アメリカ的な“building”概念に近いのかもしれない。
大阪の建築家といった感じの村野だが、出身は九州である。出光石油のような九州資本との関係も深かった。唐津生まれの八幡育ち。小倉工業高校機械科を卒業後、八幡製鉄(現・新日本製鐵)に工員としてしばらく勤務している。
戦時中、建築の仕事がほとんどなくなり、「ワシをもう一度工員として雇ってくれへんやろか」と言ってこっそり戻ってきたことがあったという話を、地元の方から聞いたことがある。事実かただの噂なのか、いずれにしても村野にもそうした時期があったということなのだろう。
九州からお見えになった建築家の方と新宿で会食する。