Peter Eisenman,“NOTES ON CONCEPTUAL ARCHITECTURE, Toward a Definition,” INSIDEOUT, Selected writings ed., by Mark Rakatansky, Yale University Press, 2004


ジェーン・ジェイコブスの『アメリカ大都市の死と生』、バーナード・ルドフスキーの『建築家なしの建築』、ロバート・ヴェンチューリの『建築の複合性と対立生』の三つを称して、1960年代の三大建築書という。では1970年代の三大建築書があるとすれば、どうなるだろうか。マンフレッド・タフーリの『建築とユートピア』、レム・コールハースの『錯乱のニューヨーク』あたりは容易に思い浮かべられる。
ピーター・アイゼンマンの諸論考は必ずしも書籍ではない。とはいえ「コンセプチュアル・アーキテクチュア覚書、ひとつの定義に向けて」などはその鮮やかな論理展開と、アイゼンマン自身を含めその後の建築に与えた影響を考えると、特筆すべきものであるように思える。ずいぶん昔の『A+U』誌にそのさわりの部分のみが中村敏男訳で訳出されているが、あえて言わせてもらえば同訳は内容をほとんど理解していないのではないかと思える。
いずれにせよ当該論文は大雑把にいって、コンセプチュアル・アートを批判的に検討し、ノーム・チョムスキーの変形生成構造(変形生成文法)を援用しつつ「コンセプチュアル・アーキテクチュア」なる概念を提出する論考だったと言え、その鮮やかな展開には若きアイゼンマンの冴えが窺われるものである。
“conceptual”の対義語は“perceptual”である。概念的・知的なものと、それに対する知覚的・感覚的・官能的なものというわけである。西洋哲学の伝統では人間の精神活動のうち、前者はより高位の活動であり、後者は低位の活動であるとだいたいにおいてされてきた。ロマン主義はこの関係を転倒させようとした試みのひとつであるが、そうでなくともしかし、コンセプチュアルであろうとすることはパーセプチュアルであることをもともと排除しているわけではなく、コンセプチュアルな領域はパーセプチュアルな領域なしには感知できぬものであり、パーセプチュアルな領域からいかに高位の活動であるコンセプチュアルな領域にもっていくかということは、多くの宗教芸術が過去において腐心してきたものでもあったろう。
ここでの議論の取掛かりはいずれにせよコンセプチュアル・アートである。言語はその音素や文字に左右されるわけではなく、またその審美的側面に依拠することもない。しかしアートは必ずしもそうではない。それゆえ「官能的側面を扱おうとする欲望や、形態と内容の伝統的な関係のゆえに、コンセプチュアルな目的のために用いられる物的形態がもつ普遍側面の潜在性を、多くの場合コンセプチュアル・アートは見落としてきた」。よって「つまるところアート・ランゲージ派によるコンセプチュアルな態度とは、対象/物はその対象/物を描写する言葉に置換されると言うに等しい。ここでは対象/物は、つまり言語は、同時に形式と意味の双方のこととなる。芸術対象/物は知的経験の伝達者では最早なく、それが知的あるいはコンセプチュアルな経験そのもの『なのである』。問題はここで対象/物の問題を超えて、実際、芸術形式を構成しているものへと移行していく。対象/物とは言語使用、つまり言葉がそれを描写するための理由であり続けている意味で、あるいは対象/物という理念が審美的意図と呼べるものを依然として具体化しているゆえに、その対象が存在していようといまいと、物的現象に関する意図というものがあり続けているのである。たとえ物的対象に関する理念や意図が必ずしも物的事実を必要としないとしても、これは芸術対象を、芸術として描写する一文を保障するだろうように見える。かくしてコンセプチュアル・アートの一側面とは、物/対象自体の物的現実という要求なしに、対象という考えあるいは意図を生み出すことに関することであるということになる。いかなる対象/物もなしに、つまりその対象/物が芸術のものであろうと建築のものであろうと物的現前を持ったいかなる物もなしに、その対象に関する思考を持つということが、コンセプチュアルなのであると述べ得る」(13-14頁)。アイゼンマンはさらに論を進める。「一つの意味ではコンセプチュアル・アートとは最終対象において決して成就しないモデルのことであり、それゆえおそらく真のコンセプチュアル状態の近似値足り得るもののことなのだろう。物的対象がまったくコンセプチュアルに描かれ得るという考えが問題とされるべきではあるまい。芸術と建築において思考がコンセプチュアルだとすれば、その作品も思考状態のままであるべきとされるべきでも、あるまい。重要なことは、そしてなおかつ最もコンセプチュアルなコンセプチュアル・アートが説明できないこととは、物的現実性それ自身がまさにコンセプチュアルな側面を持っているということなのである」。
この点において、アイゼンマンはコンセプチュアル・アーキテクチュアの端緒を見出していく。
「建築ではそうではない。まず建築は文字通りの意味で文脈だからである。第二に絵画とは異なり、建築という考えはその考えに、機能という考えや、壁や浴室やクロゼットやドアや天井といった重みのある意味論的な対象/物を、つねに含んでいるからである。実用的で機能的対象のコンセプトを抜いたものとして建築のコンセプチュアルな側面が考えられ得るとすると、それは建築的コンセプトではなくなってしまうだろう。これらを建築でありつつよりコンセプチュアルなものとすることは、まったく別の問題なのである。建築形態における意味論的必要物を、たとえば柱を線として、壁を面としてといった具合にたとえ無視できたとしても、重力という事実ゆえ、それはつねに何かを支えねばならない。かくして物的存在は思考においてさえ存在する。同様にして建築において、地面は屋根面と意味論的に異なるものとしてつねにあり、入口平面は外部から内部への変化をつねに経験するものとしてあるだろう。平面としての壁、線としての柱という考えは、コンセプチュアル・アーキテクチュアという考えを特質化するには、不十分なのである。反対に思考状態においても建てられた状態においても双方ともに、建築が対象/物を持たねばならないただそれ故のことは、それがコンセプチュアルであることをなんら妨げるものではない。建築において何かをコンセプチュアルにするということは、実用的で機能的側面をいったん引き受け、それらをコンセプチュアルなマトリックス、そこにおいてその主要な存在が最早浴室であるとかクロゼットであるといった物的事実として解釈されるのではなく、浴室とかクロゼットの機能的側面の上位に、主としてコンセプチュアルな文脈における表記法的なものとして読解される、そうしたマトリックスに挿入することを要求するだろう。繰り返すなら建築をコンセプチュアルとするものは、芸術の場合とは異なるのである。それは何かを官能的領域から知性的領域へと移す意図の重要性だけでなく、この意図がコンセプチュアルな構造において現前すべきことをも要求するのである」。この文に付された注では、さらにこうも述べられる。「コンセプチュアル・アートとコンセプチュアル・アーキテクチュアは思考状態では似たようなものだが、実現されるとなると本質的な相違がある。たとえば数学的表記法のように芸術対象はより一般化された状態のままであることも可能な一方、建築は文化的、実用的、それに意味論的な参照をつねにとらねばならない。さらにコンセプチュアル・アートに対するものとしてのコンセプチュアル・アーキテクチュアは物を扱わねばならない」。
コンセプチュアル・アートを批判的に検討しつつ「コンセプチュアル・アーキテクチュア」を引っ張り出してくるこのあたりの論理展開は、じつに鮮やかというよりほかはないのではなかろうか。
さらにここからさきチョムスキーが援用され、コンセプチュアル・アーキテクチュアが整理されていく。
19世紀の残滓が窺えるソシュールやパースの言語学/言語論と異なり、1955年に発表されたチョムスキーの変形生成構造は今日から見れば簡単なコンピュータ言語のアルゴリズムのようにも思えるものだが、面白いことにこの研究を助成していたのはアメリカ国防総省だった。そんな話はさておき、ここではチョムスキーにおける深層構造/表層構造が、コンセプチュアル/知覚的、統語論的/意味論的という対概念装置とともに、階層的なマトリックスを形成していく。
たとえば建築の意味論的側面においてスーパースタジオの『カラブリア計画』とロバート・ヴェンチューリの『母の家』をはじめとした諸作品の相違が述べられる。
スーパースタジオの計画においてはハンネス・マイヤーらによる国際連盟計画案の直接的参照により、マイヤーのマルクス主義的議論へのオマージュが提示される一方(つまりこれはポスター芸術に近い)、ヴェンチューリの建築においては過去のイメージがやはり参照されはするがしかし、そのイメージは「複合性と対立性」という統語論を通してコンセプチュアルな意味における意味論になる。つまり両者はともに意味論的ではあるのだが、前者は表層的・知覚的意味論であり、後者は深層的・コンセプチュアルな意味論ということになろう。
あるいは建築の統語論的側面においてはル・コルビュジエとジュゼッペ・テラーニの作品の相違が述べられる。
ル・コルビュジエにおいては既知の形態、つまり機械、船舶、航空機のものが比喩的に置換されて文脈のなかに挿入される。またコーリン・ロウが「理想的ヴィラの数学」において示したように、ヴィラ・ガルシュはパラーディオのヴィラ・マルコンテンタをその参照元のひとつとし、なおかつルネサンスの「理念」を意味論的に参照する。ル・コルビュジエのこうした統語論は知覚的・表層的統語論であるとされる。いっぽうでテラーニにおいてもこうしたイコノグラフィーは存在するが、ただしそれは二次的なものであり、コンセプチュアルなものであるとされ、たとえばカサ・デル・ファッショにおいては「イタリア・ルネサンス上流文化への意味論的参照、つまりテラー二によるその平面計画の使用における最終的な意図はそうした類型から伝統的意味を剥奪し、代わって彼の特定形態が応答すべき深層統語の参照項として使用することにあるように見える」とされる。
最後にコンセプチュアルにおける意味論的/統語論的な相違が、ふたたびアートを参照して吟味されている。ジャスパー・ジョーンズとケネス・ノーランドの、それぞれの作品を通してである。
いずれにせよこれら諸概念のマトリックスによる作品分析は、じつに精密なものである。

もっともその論の展開自体をみるなら、つまりまずアートにおける概念が検討され、続いて建築においてその相応物が検討されるという論の展開をみるなら、コーリン・ロウの透明性における論の展開を思い出すこともできるだろう。ロウもまた、キュビズム作品の分析において透明性(transparency)の二つのあり方を検討し、ついでこれら諸概念を建築において検討していたからである。さらにいえば、アイゼンマンもロウも、アルフレッド・バーの『絵画から建築へ』という戦後アメリカ建築に影響を与えたとされる論考の路線のうえを、その論理展開のあり方においては踏襲しているともあるいはいえるのかもしれない。
さらに述べるなら、本論が収められた本書の冒頭は、1960年代に書かれた形態論である。生真面目な学生によるレポートのようなじつにまっとうな形態論であるとも言える。
アイゼンマンは近年イェール大学ルイ・カーン終身教授となったと仄聞する。いろいろな点でアイゼンマンはアメリカ建築の嫡子なのだろう。