Timothy James Clark (T.J.Clark),The Absolute Bourgeois, Artists and Politics in France 1848-1851, University of California Press, 1999, Image of the People, Gustave Courbet and the 1848 Revolution, Thames and Hudson, 1999


T.J.クラークことティモシー・ジェームズ・クラークの伝説の書である。
『絶対ブルジョワ』が前半を、『民衆のイメージ』が後半をなしている。初版はともに1973年。
これらは英語圏におけるニューアートヒストリーの嚆矢と目されているが、クラーク自身は「ニューアートヒストリー」という言葉は用いていない。彼が用いたのは「芸術・社会史(the social history of art)」という言葉である。『民衆のイメージ』冒頭での彼自身による「芸術・社会史」の説明では、まず避けたいものが以下のように述べられる。
「芸術作品がイデオロギーや社会関係や歴史の反映であるという概念には興味がない。同じく、作品自体やその制作には現れていないもののその上面にはなぜか現れているという、芸術作品の『背景』となる歴史について語るつもりもない」「芸術家の社会的存在としての判断基準が〈アプリオリに〉芸術共同体であるという考えも拒否したい。この視点ではある不可避なシステムの諸干渉を経て、定められたある経路によって歴史は推移してきたことになる。芸術家は芸術共同体の価値観や理念(現代の最良の芸術家にとっては、これはアバンギャルドというイデオロギーである)に応答するというわけである。これら価値観や理念が今度は社会の一般的価値観や理念によって変化し、さらにまた歴史的状況によって決定されるとされる。たとえば、クールベはリアリズムに影響されたが、そのリアリズムは資本主義的唯物論の産物である実証主義に影響されている、といったものである」「最後に、形式と内容の直感的な類比に芸術・社会史を任せることも拒否したい。たとえば、クールベの『オルナンの埋葬』において確固とした構図の焦点が欠けているのは、この画家の平等主義を表現しているとか、マネのとっぴな『パリ万国博の風景』における断片的な構図は、産業化社会における人間の疎外を表現しているというようなものである」(10-11頁)。
そのいっぽうで、また以下のように述べられる。
「歴史とそれに固有の決定因との遭遇は、芸術家自身によってなされる。彼がたまたま遭遇した構造の一般特性の発見へと、芸術・社会史は乗り出すのである。ただしこの遭遇の特定条件を位置づけてもみたい。ある場合において経験の内容がいかに形式となり、出来事がいかにイメージとなり、退屈がその表象となり、絶望が〈憂鬱(spleen)〉となるかを。これらが問題なのである。これらは、芸術はときに歴史に効果的であるという理念に、われわれをたち返らせる。ほかの諸活動や出来事や諸構造と同じく、芸術制作も歴史的プロセスであり、それは歴史におけるとともに歴史に対する諸行為の連続である。それは意味の構造のある特定の文脈においてのみ理解可能である。だが今度はそれがこれらの構造をときとして変え、そして破壊もする。芸術作品はその素材としてイデオロギー(言い換えるなら、一般的に受容され、支配的な理念、イメージ、価値観)を持っているだろうが、しかし作品はその素材に作用する。それは素材に新しい形式を与え、あるときその新しい形式自身がイデオロギーを破壊するものとなろう。そうしたことが起こったのを1851年のサロンで、われわれは見るのである」(13頁)。
またこれら避けるべきものとこの作業仮説の中間にフロイトの理論、無意識とおそらく精神分析における自由連想の構造と思われるものが参照されているのは、興味深い。
『絶対ブルジョワ』の劈頭では1848年の2月革命から6月暴動にいたる過程が、映画のシーンのように描かれている。その冒頭の描写、フォブール・サンドニ地区からは『ル・ナショナル』紙の読者である洋品商たちが、フォブール・サンアントニン地区からは『ラ・レフォルム』紙の読者である職人衆が・・・バリケードへとやって来た・・・といった記述は、『民衆のイメージ』の結語部分の伏線となっている。同様にして冒頭にそもそも「バリケード」という主題を持ってきたことも、劇的な導入を示すとともに同じく結語を暗示するものでもあろう。
さて、1827年に約2世紀ぶりにパリに登場したバリケードはこののち19世紀を通して繰り返し登場し、それゆえそれは単なるバリアではなく、アーケードやディオラマと同じくパリの舞台でもあるという。そのバリケードを描いた最も有名なものは、ウジェーヌ・ドラクロワの『民衆を率いる自由の女神』である。1830年7月革命を描いたこの絵は、1848年2月革命の表象の参照点として、たびたび登場する。
クラークはしかし、この絵は「革命」とはほとんど関係のないものと見ている。『絶対ブルジョワ』のうしろの方では、いろいろな点でドラクロワは最良の芸術家がそうであるように、その表象においてプロパガンディストではなかったとされる。
背景として描かれているものから、この絵の舞台の時間と場所をクラークは特定する。それはつまり7月革命において最後のバリケードとなった地点であり、最後の突撃となった行為であり、つまりは19世紀の歩兵戦におけるクライマックス、「全軍!突撃!!」の場所と瞬間である。エコール・ポリテクニークの制服を着用した小僧は二丁拳銃を振り回し、労働者と思しき与太者は興奮から目を見開いて剣を振り回し、武器は克明に描かれ、これはむしろ『サルダナパールの死』においても繰り返される、破壊と殺戮のエロティシズムというドラクロワの個人的主題であろうというわけである。
1831年のサロンで展示されたとき、この絵は顰蹙を買ったという。封建制に対するブルジョワ革命が主題であるべきなのにそこに描かれているのはブルジョワが見たくないものであり、女神のまわりにいるのはブルジョワではなく、与太者ばかりだったからである。
そんなドラクロワはパリ郊外の地主であった。パリでの暴動とコレラの流行を恐れ、貧困とサロンでの失態を契機としてバルビゾンへと引き篭もったジャン=フランソワ・ミレー同様、ドラクロワもまたみずからの領地へといったん引き下がる。ブルジョワジーとはしかし、なんなのか。これらの書の主題のひとつである。
第二共和制時代の官選サロンはこの体制と「革命」を表象するのにことごとく失敗したという。芸術政策を担当したシャルル・ブランは旧来のアカデミズムをそのまま残したのである。そこに登場するのはジェリコーやアングルの画法のつぎはぎによる「革命」の寓話化ということになろう。これらのことも含め、しかしながら第二共和制(芸術)は失敗だったという一般的にして後知恵的な視点に、著者は全面的には同意しない。言ってみれば19世紀における近代化や都市化の速度に対する芸術の桎梏が、その根底にはある。
本論ともいうべき『民衆のイメージ』は実質的なクールベ論、それも第二共和制時代のクールベ論となっている。「歴史とそれに固有の決定因との遭遇は、芸術家自身によってなされる」というクラークの芸術・社会史の謂いにおいて選択された芸術家は、ギュスターブ・クールベというわけである。
ではその研究方法は、どういうものだろう。避けたいものとして列挙された既成の諸理論や諸公式や直感的類比をいったん退けたうえで残った方法、あるいはクラークがとった方法とは、まずマニアックな探偵調査か警察調書的な一次史料検討の積み上げである。クラークはクールベのスケッチ、書簡、交友関係、当時の出版物といったものを、徹底的に調べあげている。歴史家はおうおうにしてある歴史解釈のなかに芸術家をおき、その文脈においてその作品を位置付けかねない。しかしそれはせいぜい後知恵であり本末転倒なのであって、そうではなくクールベの生を生き直し、そこで彼がたまたま遭遇した構造の一般特性の発見へと向かう。ここでの芸術・社会史の方法をあえて述べるとすると、そういうことになるだろうか。
芸術家にとっては必ずしもいい形容ではない「反骨の画家」とか「反体制派の画家」とか「革命の芸術家」とか「社会主義リアリズムの先駆者」とか、あげく「絵の才能がなかったのでリアリズムに走り、政治活動に関与した」とか、その「政治活動」もじつは濡れ衣を着せられて政治犯に仕立てられた田舎物でお人好しのヌケサクのものだった云々といった、クールベについて思い浮かべられるイメージがある。いわばヌケサク・クールベ。そんなヌケサク・クールベの伝説がまず解体される。
第二共和政時代に描かれたリアリズム三部作、『石割職人』、『オルナンの埋葬』、『フレジエの農民、市場からの帰り』、そしてその前哨としての『オルナンの夕食後』の作品分析では、いかに手の込んだ操作がなされているかが丹念に読み解かれていく。その記述は圧巻である。さらに補遺で展開される『クールベさん、こんにちは』の作品分析、その元ネタとされるものを見出し、クールベがいかに手の込んだ操作をそこに行っていったかを読み解いていく作業も、圧巻である。クールベの絵画は一般的にはリアリズムと分類されるが、これらの分析から言えることは彼の画風はむしろマニエリズムであり、それゆえクールベのリアリズムとはマニエリズムのあるあり方だったとも言える。いずれにしてもこうした手の込んだ作品はしかし理解され難いだろうし、高度な知性はかえって「ウツケ」や「ヌケサク」のレッテルを貼られがちともいえる。
ではそのクールベのマニエリスティックなリアリズムとはどういうものだったろう。1840年代末、すでにリアリズム派という画家の一派は存在していた。著者はクールベのリアリズムを友人の小説家シャンフルーリの作品からの影響とその相違、および1840年代のオノレ・ド・バルザックの小説との関連から導き出してくる。シャンフルーリにとってリアリズムとは当時流通していたパントマイムにおけるパロディーのことだったという。クールベ作品にときおり見られる人を喰ったような作風はシャンフルーリ作品との関連も言えるが、しかしその特徴は『オルナンの夕食後』についての分析で述べられるように「参照源への敬意ではなく、容赦ないその操作にある。模倣ではなく、過去の確信犯的な操作がある。ル・ナンの本質をつかんでディテールを捨象し、何を模倣し、何を変奏し、何を発明するかを意識しつつ、単一イメージにおいて異なる様式をつなぎ合わせる」(73-74 頁)ことにあると言われる。またバルザックの小説においては物語的(narrative)構成ではなくプロット的構成(ミハイル・バフチンドストエフスキー論が思い出される)がなされていたとされるが、これもクールベのこの時代の画面構成への参照源という。
1848年、パリにいたクールベは友人のシャルル・ボードレールとともに「暴動」を見物しつつこうした行動への無関心を示し、さらに銃をとって戦うことへの拒絶をも示している。自分の世界と人生はあくまで絵画にあるという思いがあり、さらに翌年にはサロンでの入選を果たし、画家としての着実な一歩を踏み出したという自負も窺われる。当時の文化人にあってこれほど「非・政治的」であることは、むしろ珍しいのではなかろうか。こののち故郷のオルナンに戻ったとき、彼はサロンでメダルを獲得した英雄として歓待されている。リアリズム三部作はこのオルナン滞在中に1851年のサロンに出品すべく描かれたものだった。
1851年のサロンはたまたま延期され、その延期期間にクールベたまたまこれらの絵画を巡回させたに過ぎない。しかしオルナン、ブザンソンディジョン、そしてパリへと、田舎から地方中核都市へ、そしてパリへと巡回するにつれ、観客の反応は歓迎から黙殺や拒否へと明確に変化していったことが克明に跡付けられる。
クールベというひとりの芸術家が遭遇した当時の構造が、都市化と近代化という「構造」から跡付けられていくその過程の描写もまた、圧巻である。パリの観客からみれば『オルナンの埋葬』は困惑すべきものだったのである。オルナンになぜ「ブルジョワ」の格好をした人たちがいるのか、この絵画はハイアートの形式を踏襲しながらいっぽうでは大衆文化の形式をも利用しており、また古典的絵画の伝統が参照されているいっぽうでは登場人物は目線を合わせないという現代的な風貌をしており、パリではブルジョワしか許されない埋葬をオルナンの田舎者が荘厳に執り行い、「階級闘争」は都市的現象であって田舎はたとえばジャン・フランソワ・ミレーが描く世界かと思いきやそこにブルジョワと百姓がおり、しかし考えてみればパリのブルジョワも何年か前には田舎から上京してきたか、さもなくば彼らの父親世代あたりが田舎の百姓暮らしから逃れてきたのであり、絵画的にいえば色使いは周到に計算されて構築され、群像は個人を特定できるほどに描かかれ・・・。19世紀中葉のパリにおいてブルジョワジーは「階級」ではなく「ポジション」であったと、著者は述べる。田舎との関係を抹消し、みずからを絶対ブルジョワとして完全に都市化させたとき、神話/物語は完成することになるのだろうが、しかしそれはブルジョワが打倒目標とした封建制と、その基盤を都市に置くか田園/農村におくかの相違こそあれ、構造的にはよく似ている。
初版が出版されたとき、著者は弱冠30歳だったということになる。ニッコロ・マキャベリの『君主論』やカール・フォン・クラウゼヴィッツの『戦争論』などのように晩年になって書かれる歴史的名著というのはある。それらの名著とはまた異なる伝説の書というべきなのだろうか。美術史学という20世紀において相貌を整えてきた分野にあって、1973年にはあるいは既成理論が幅をきかせつつあったのかもしれない。アダム・スミスがかつて「オックスフォードでは教授たちはもはや教えるふりさえしていない」と18世紀アカデミズムを痛烈に批判したような状況に、あるいは当時のアカデミズムも陥りつつあったのかもしれない。この点でクラークにとって「芸術・社会史」というあり方自体が、学問におけるリアリズムでもあったと言える。それでもしかし、なぜクールベなのか。
クールベは19世紀フランス絵画史においてはおそらく異質な存在である。その手の込んだ画風はイギリス好みと言えなくもない。いずれにせよ結局のところ、クラークはクールベが好きだったんだろうなぁ、と思う。
新進気鋭の歴史家(当時)による伝説の書である。