Anthony Grafton Leon Battista Alberti Master Builder of the Italian Renaissance, Harvard University Press 2000


イタリア・ルネサンスの巨匠のひとりレオンバッティスタ・アルベルティについての最新の評伝的書物である。
冒頭ではこれまでのルネサンスとアルベルティ研究が手際よく纏められている。嚆矢はもちろんヤーコプ・ブルクハルトにあり、その後のゴンブリッチパノフスキーらのウォーバーグ派の研究、手短にいえば科学と芸術の融合としてのルネサンス観といった研究を経て、今日の主流をなしているらしいマンフレッド・タフーリらのルネサンスとアルベルティ研究が、瞥見されていく。タフーリらのものは著者によれば、仕えた宮廷や教会に対してシニカルであったといったアルベルティの暗い側面を、掘り返したものだという。これに対して著者は、そうしたことはブルクハルトも承知していたが、彼のルネサンスとアルベルティ像を描くにあたりあえて取り上げなかったとし、さらにタフーリの言説については本書の末尾の方でも比較的長く批判がくわえられている。
少年時代のレオンバッティスタはルネサンス人文主義者の多くがそうであったように、パドバ大学でしばらく学んでいる。当時の学問は医学と法学で、その基本に据えられていたのは「論理学」であり、つまりは徹底した“inference”というわけである。感覚とか感性とか曖昧なロゴスは幻惑でもある、というと1970年代のコンセプチュアルアートにおける議論を彷彿させるかもしれないが、後期中世からイタリア・ルネサンスへの転機のひとつになったのは、こうした論理性の徹底でもあったのかもしれない。
論理学の基本はアリストテレスの『論理学』であり、これをアラビアの哲学者アヴィセンナや14世紀の哲学者ピエトロ・ダバノを通して学び現代に応用することが、それまで一般的であったという。日本語でいう「温故知新」のようなものかもしれない。このいわば温故知新的な中途半端な方法に根本的に異なる方法をとったのがフランチェスコ・ペトラルカであり、その方法は徹底した原典回帰であったとされる。一切の二次解釈や三次解釈を退け、原典に忠実に、そこからひとつの体系を組み上げる方法というべきであろうか。この方法ともども、ルネサンスラテン語復興にもおおきく関与している(日本語訳の「文芸復興」や「人文主義」や「人文主義者」は、このあたりのニュアンスを汲み取ってのものだろう)。ラテン語とイタリア語で書かれたアルベルティの『絵画論』は建築家のフィリッポ・ブルネレスキに献呈されたものではなく、彼への校訂冊として書かれたとされ、こうして人文主義者たちはみずからの書いたものを互いに校訂(emendation)することがあったという(“proof reading”でも“correction”でもなく、“emendation”である)。
もうひとつ、ルネサンスを準備したものとして、それまでの技術の発達も一瞥される。有名なヴィラール・ド・オヌクールの画帳に見られるように、後期中世において技術は個人の手仕事の領域からすでにより高度な領域へと進みつつあり、高く聳えるゴシック聖堂のように、そして実際に高度なものとして建設もされていたのだった。またルネサンスの少し前にはカノン砲も発明されている。
アルベルティの初期の代表作のひとつが『絵画論』である。この書のなかでアルベルティは遠近法について述べている。それはユークリッド幾何学における三角形の相似を用いたもので、この点ではこれはいたって単純なものである。またアルベルティが遠近法を示すために用いた穴の開いた箱はこれまでカメラ・オブスクラと考えられてきたが、そうではなく、箱のいっぽうに絵を描いたガラス(あるいは複数枚のガラス絵?)を固定し、反対側にあけられた一点から覗くと、絵が効果的に三次元的に見えるというものであったという。これも、ブルネレスキがフィレンツェの洗礼堂前で披露したという、鏡を用いた手の込んだよく知られた装置に比べると、いささか単純な気もしなくもない。
アルベルティの『絵画論』の大きな特徴はしかし、“historia / storia”という概念を絵画に持ち込んだことにあるようである。この言葉を彼はかつてのプリニウスらのラテン語とは異なる意味で用い、口伝家の最高作品としての“historia”という概念から引き出し、いわば絵画の根本原理のようなものとして用いている。絵画は単純に物質的な描画の問題ではなくなったわけであり、これは近代的な絵画観の萌芽であると言っていいのかもしれない。そしてほぼ同様のことはウィトルウィウスの『建築十書』を批判的に読むことで成立した『建築論』においても起こっている。
ラテン語に堪能であったアルベルティから見れば、古代ローマウィトルウィウスの『建築十書』は文法的には誤りだらけであり、文体もちぐはぐであり、幼稚な「作文」に映ったようである、という。しかしこの懐疑はもっと根本的なところにまで行き着く。なにかコンセプチュアルなオーダーが欠けているのではないか、という疑問である。類型に即した平板な技法解説が続いていくウィトルウィウスの『建築十書』に対し、“firmitas”“utilitas”“venustas”を、アルベルティは建築の主要概念に据えた、とこう書くと、「をやぁ」と思われる方もいるのではなかろうか。「古代ローマのマーカス・ウィトルウィウスによって建築の根本原理は強・用・美にあるとされた」と人口に膾炙しているし、日本語版のウィトルウィウス建築書の冒頭の方には、じじつ「強・用・美」という言葉が載っているからである。ウィトルウィウスとアルベルティの相違を際立たせる著者の筆法かもしれないが、あるいはそうしたウィトルウィウス読解自体が、じつはアルベルティによる「脱構築」経由のものでもあるのかもしれない。さらによい建築の中心的特質とは“concinitas”であるといわれ、これは、全体を損なうことなしに付加も削除もできない諸要素の相補的関係のこととされる。
アルベルティの建築論についての著者の記述からは、少なくとももう二つの特質が言える。ひとつは古典様式を理想形として確立したことであり、これが18世紀にいたるまで西洋建築の軸となったということである。もうひとつは建築家のあり方である。建築術(architektonike techne)は直訳すれば棟梁術ということになろうが、こうしたウィトルウィウス的概念に対し、建築家とは創造的哲学者(creative thinker)であるという概念を提出したことである。ここにはまた近代的な建築家像の萌芽があるのではないだろうか。
アルベルティの晩年の作品であるマントバのサンタンドレア教会やサンセバスティアーノ聖堂やリミニのマラテスタ寺院などは、こうした彼の建築論を踏まえたものでもあるだろう。のちのマニエリズム/バロック時代のミケランジェロによる“angular pose”や“serpentine figure”と呼ばれる動的な構成や意図的な操作とは程遠い、初期ルネサンスの理知的で静謐なものともいえる。少なくとも表向きは洗練された宮廷人だったアルベルティらしい作品とも言えるのかもしれない。
ローマが都市としてのその相貌を整えていくのは、のちのバロック時代のインノケンティウス10世期、建築家のベルニーニらによってである。晩年のアルベルティは法王ニコラス5世の「ローマを新エルサレムとする」という、聖都建設の黙示録的構想にも共感していたともいう。当時のローマはまだ治安が悪く、ホームレスが転がっているようなまちであった。