堀口捨巳は伊勢神宮について「それではいつ、今の神宮の姿になってきたであろうか。これは『日本書紀』には出てこない。しかし仏教が入ってきて、拝むべき何かを納める建物の麗しさや、崇めらるべき高さを見て、神の祭り方の中にも、新しい姿の求めが生まれたのではなかろうか。そうでなければ、三輪神社のように、今でも、山や岩や杉で、いくらでも崇めたくなるような環境の雰囲気を作り得ているからである。伊勢へはじめて移ったときの磯城神籬の姿で、少しも変えることは起こらなかったであろう。しかし神霊が天から憑りつくという神籬では、伊勢の神のように神霊代が鏡のばあいになると、木に掛け放しにはできかねる。そこに鏡を納める建物がどうしても必要になってくるであろう」(堀口「伊勢神宮」、渡辺義雄『伊勢神宮平凡社、1973、6頁)と述べている。
原始神道から社殿祭祀への移行がここで三輪山神籬(自然形成物)から伊勢神宮(人工物)への移行として述べられ、なおかつその契機が仏教伽藍(と漢字文化)の到来と関係付けられてもいる。伊勢神宮の成立は万葉仮名あるいは『古事記』『日本(書)紀』の成立と類比できるのかもしれない。建築の成立と文字文化という関係は示唆的でもあろう。
大雑把にいって建築とか文字とか戦争とか、つまり都市文明がはじめて登場したのは古代シュメールであるという。狩猟採集(hunting foraging)時代では30-50人規模の集団が移動していただけだったが、このあたりで都市が成立してより大きな集団が形成されたと、むかし読んだ自然史の本(Max Oelschlaeger, The Idea of Wilderness, From Prehistory to the Age of Ecology, Yale University Press,1993)には書いてあったように思う。
ところで伊勢神宮と東南アジアの建物の類縁性を、架構形式、高床、千木と切妻から伸びた角などから、ロクサーナ・ウォータソンは強調している。いろいろな点で伊勢神宮は不思議な建築である。正殿に納められているとされるのは聖像ではなく鏡であり、その内部空間を撮影した写真にお目にかかることもまずない。論じられる点もアプローチや領域性や架構や式年造営等であり、光とか空間について論じられることはない。また宗教的な建築はたいてい都市の中心かその近くに位置するものだが、伊勢神宮は都から離れた山あいに位置している。伊勢が選ばれた理由は東方ににらみをきかすためだったと解説されることもあるが、文字が出回り始めた頃のものであるゆえ確固とした文献的裏付けがあるというわけでもなく、この説を含む諸説は基本的に仮説である。1973年に出版された渡辺義雄の写真集でも、内部空間を撮影したものは一枚も登場しない一方、その冒頭ではドイツ・ロマン派を彷彿させる森厳なる自然のカットがしばらく続く。
結局のところ東大寺国分寺のネットワークによって外来の仏教が実質的な国家宗教としての地歩を築いていったと、さしあたり言える。神道や神社の位置はこの点で微妙に見える。さらに神道は農耕儀礼から発展してきているとされるが、宗教という形式なのかという疑問もあるかもしれない。
在地信仰から神社という形式が成立したのではなく、在地の伝統を官社制のなかで神社という形式として中央が整備していったという説があるらしい。内面があって風景が見出されたのではなく風景があって内面が見出されたとか、シニフィエシニフィエというシニフィアンであるといった、ひところよくお目にかかった論理展開が思い出される。仮にこの説が正しかったとして、仏教が実質的な国家宗教のネットワークとして形成されつつあった時期、それではなぜもうひとつのネットワークをあえて形成したのか、また神社の社殿は仏教伽藍とは異なった形式をなぜとったのかという肝心の問いは、問われず残されているように見える。