Slavoj Zizek WELCOME TO THE DESERT OF THE REAL、VERSO、2002


買ったままだった本を読む。出版からすでに6年がたっているものの、本書を読むとたとえばテロに対しては核の先制攻撃もあり得るとするジョージ・ブッシュの発言などは、9.11直後のアメリカ国内の過剰反応と切迫した状況をして、キューバ危機以来のものだったと思わせる。
題名はウォシャウスキー兄弟監督の映画『マトリックス』のなかの台詞からとられたという。前半はこの著者らしく映画の引用が多く、後半はジョルジョ・アガンベンの「ホモ・サケル(HOMO SACER)」概念が多用されている。
アガンベンのこの概念は著者によれば、基本的人権と市民権の狭間の存在、生物的には人間としてありながら社会的には抹殺されている存在、ということになろう。ハナ・アーレントの『パーリアとしてのユダヤ人』が思い出される。また言葉からすれば“sacer”は“sacred(聖者)”とも通じている。本書において登場するホモ・サケルは、グアンタナモにおけるタリバンアルカイダの捕虜、アフガニスタンの住民、ベルリンで差別されるベトナム移民、アウシュビッツの被収容者、パレスチナの住民などである。たとえば「テロとの戦い(war on terrorism)」は「普通の戦争ではない」(ブッシュ)ゆえ、グアンタナモの収容者は通常のPOW(prisoners of war)のようには扱われない。残酷なリンチが行われるかと思えば「人道的」配慮から食料が配られる。あるいはアフガニスタン上空を飛ぶ米軍機から落とされるものが爆弾であるのか食料であるのかは、そのときどきのアメリカの判断次第となる。近代的な戦争は主権国家の紛争解決の一手段としてあったが、「テロとの戦い」はそうした近代戦争から最初から逸脱するわけである。この同じ点から左翼による常套句「戦争反対」や「人殺しはやめろ」も批判される。「これは普通の戦争ではない。一般アフガン人は殺さない」として一月行動を控えたブッシュの方が一枚上手であり、さらに「ホモ・サケル」として扱うことは「人殺し」より悪質である場合もあり得るからである。たとえばベルリン街頭におけるベトナム人に対する嫌がらせ(harassment)はネオナチによる暴力よりも悪質であると著者は見る。ネオナチの暴力は明示的であり、それゆえ異常であることが容易に看取される一方、嫌がらせの方は暗示的であり、それゆえそういうものとして日常化し、そういうものとして内面化していくからである。
冒頭の一章では、タイタニック号沈没が20世紀初頭における19世紀的なるものの終焉を象徴的に示したとすれば、9.11は21世紀初頭における20世紀的なるものの終焉を象徴的に示したという著者の考えが示される。20世紀的なるものとはザ・リアルへの希求であり、ジョルジュ・バタイユの「過剰」から大島渚の『愛のコリーダ』までが20世紀芸術におけるその例として示される。この章を読んでいると「現実界」とか「物自体」などというのは、精神分析的措定物か哲学的方便に過ぎないのではないかとも思えてこなくもない。
欲望が裏切られた状態を精神分析は「幸福」と呼ぶ、という語りで始まるちょうど中間の章では、東西冷戦時代からのイデオロギーが検討される。
東西冷戦時代の右翼/左翼の対立軸は冷戦後、グローバリズム/反グローバリズムという対立軸にとって代わられたという説明がなされることがある(ケビン・ロビンス他)。しかし冷戦時代の右翼/左翼・軸が偽の軸だったとすれば、このグローバリズム/反グローバリズムも偽の軸ではないのかという疑問は、当然あろう。この点で著者の視点は一貫している。起こっていることは「文明の衝突」(サミュエル・P・ハンチントン)ではなく、それぞれの文明内部における衝突であるという視点である。イスラム・テロリストはサウジアラビアクウェートアラブ首長国連邦をも標的にしている一方、アメリカ国内では9.11をして「天罰がくだった」とするキリスト教原理主義者が200万人以上いるという。またルワンダの虐殺は過去の出来事ではなく、現在進行中であることにも注意を喚起する。
カルチュラル・スタディーズポストコロニアル理論や大学左翼(academic Left)に対しても、著者の見解は手厳しい。1968年のモットー“Soyons realistes, demandons l'impossible!”を皮肉りながら「さあ現実的になろう。われわれは大学左翼だ。批判的に見えるようありたい。それでいてシステムが与える特権を享受したい。できない要求をシステムに投げつけよう。われわれは皆、この要求が決して実現しないだろうことを知っている。実際には何も変わらないだろうことを確信しているからこそ、われわれはこの特権を維持できるのだ」(61頁)。大学左翼は逆説的にも、そして当然にも保守主義の亜流というということになろう。この章の末尾は2002年に起きたオランダの政治家ピム・フォルタイン暗殺の逸話で終わっている。フォルタインは政治的には右翼大衆主義者であったが、政策的にはまったくリベラルで、個人的には多くの移民と親交があり、冗談を解し、またゲイであったという。この不思議な存在は右翼大衆主義とリベラルな寛容という対立軸が偽のものであり、同じコインの表裏として示す生き証人だったゆえに抹殺されたのだとされる。
後半部分ではパレスチナホロコーストへの見解が提示されている。
9.11直後、イスラエルは「テロとの戦い」と称してウエストバンクへ軍事侵攻した。相手は主権国家ではなくホモ・サケルというわけである。それゆえパレスチナの子供たちは「矯正すべき」ものとして扱われ、イスラエル軍に歯向かう姿勢を見せれば「テロリスト」と見做され、抹殺の対象となる。ヨーロッパがこうした行動について「イスラエルをボイコットせよ」と主張すれば、「ユダヤをボイコットせよ」という過去のヨーロッパにおける反ユダヤ主義の悪夢がよみがえってきてしまう。
著者はこの問題に対し、過去のヨーロッパにおけるホロコーストと今日のイスラエル/パレスチナの緊張はまったく別物であると、明快な主張をなしている。つまり前者は近代化のダイナミクスへの右翼的抵抗というヨーロッパ史に属するものであり、後者は植民地主義の最後の一頁に属するものであるという。さらにパレスチナ人の真の敵はユダヤ人ではなく、この惨状を利用しているアラブ体制であることを、いかに困難であってもパレスチナ人は認めねばならないともいう。
またパレスチナ問題の合理的解決は、イスラエルのウエストバンクからの撤退と、その見返りとしてのアラブ諸国によるイスラエルの国家としての承認および安全の保証であるという論が展開され、これは(アメリカではなく)ヨーロッパが主導権をとるならば可能であるともいう。さらにはイスラム世界の今後の可能性として、イスラモ・ファシズム、イズラミック・プロテスタンティズム、そしてイスラム社会主義の三つが提示されもする。
本書結語の末尾近くでは1940年のフランスの状況が瞥見されている。1940年のフランスの状況、つまりパリ陥落後の状況はこれまでもさまざまなところで何度となく論じられてきた。ここではラカンの概念が引用され、シャルル・ドゴールの行動が大文字の行為(Act)の例と見做される。大文字の行為は、精神分析でいうアクティングアウト(acting out)とは、もちろん異なるものだろう。アクティングアウトがいわば閉じられた領域から別の閉じられた領域への移行なのだとすれば、大文字の行為は外部を希求するものだからである。それが外部へと向かうものである以上、結果は保証されない、つまり賭けである。
「愛の匂い(SMELL OF LOVE)」と題されたこの結語において、9.11後にニューヨークのダウンタウンに充満した匂いについて、著者はまた語る。「冒涜的に見えるかもしれないが」と前置きしながら、ギリシア悲劇におけるアンティゴネの行為と通じるものがあるのではないかというWTC突入後、マンハッタン20丁目まで残ったその焼ける匂いについて、スラヴォイ・ジジェクはこう述べている。
「それでニューヨーカーたち自身はどうなのだろう? 9.11から数ヶ月たってもマンハッタン・ダウンタウンでは20丁目まで、WTCタワーの焼けた匂いを嗅ぐことができた。やがて皆この匂いに愛着を覚えるようになり、ラカンならニューヨークの「シントーム(sinthome)」と呼ぶだろうものとしてこれは機能し始めた。都市へのリビドーの愛着が凝縮された符牒のことである。それゆえこの匂いが消えたとき、みな懐かしく思うことだろう」(145頁)