岡倉の著作とへーゲルの『世界史』や『美学』の類縁性は一読して容易に看取される。これは以前にも書いたことだが(拙論「シンプリシチー」、『建築とリアル』、鹿島出版会、1998所収)、たとえば『茶の本』における岡倉の東洋史はインドに出自し、支那において発展し、そして日本において完成されるとされる。これは世界史は支那に出自し、イスラムで発展し、そしてヨーロッパにおいて完成されるという、ヘーゲルの世界史の構造を髣髴させる。また歴史の背後にあってそれを動かしているのは「精神」であるとヘーゲルは見ていたが、岡倉が「精神」という概念を好む理由のひとつも、ヘーゲルにあるように思われる。さらに『茶の本』における「茶」とは、そうした「精神」の“vehicle”としてあろう。
こうしたことは偶然の一致かと考えていたが、神林恒道はその著(神林、『近代日本「美学の誕生』、講談社、2006)において、岡倉の師であるアーネスト・フランシス・「フェノロサ東京大学ヘーゲルの哲学を講義したといわれるが、日本美術を世界文明の一環として総合的な視野から捉えようとしたその姿勢に、ヘーゲル的思想の影響を認めることができるかも知れない」(神林、2006、29頁)と述べ、さらに「竹内好は、後年の天心の文明観はもうこの時期に形成されていたのだと指摘している」(同、30頁)と述べ、また岡倉の「とりわけ美術史の記述の方法論は、フェノロサ東京大学で講じたヘーゲルの哲学を学ぶことから摂取したものであろう」(同、33頁)と述べる。さらには「天心は次のように述べている。「フェノロサはヘーゲリヤンでスペンセリヤンにして、真面目に泰東美術を研究せんとせり」(同、60頁)、「天心の最初の「美術史」であり、芸術精神の自覚史として構想された『日本美術史』に及ぼしたヘーゲル的進化思想の影響を確認していこう」(同、65頁)、「こうした日本美術あるいは東洋美術の展開についてのヘーゲル流の図式の応用が、だれの目にも明らかに見えてくるのが、明治36年、ロンドンのジョン・マレー書店から出版された『東洋の理想』である」(同、67頁)という記述が登場していく。
ついでに言えば、明治日本に影響を与えたとされるハーバート・スペンサーの思想がどういう経路で入ってきたかもここから推測される。ヘーゲルにおける進化論的あるいは生物学的な生成衰退モデルはヴィンケルマンらの先行者の影響が見られるもので、またヘーゲルギリシア芸術を高く評価しているが、その言説はアロイス・ヒルトらギリシア学者からのほぼ受け売りであり、いずれにしてもヘーゲル自身とスペンサーの関係はほんらい希薄と思われる。またアメリカ美術史のテキストではフェノロサは「1878年から1886年にかけて東京大学哲学教授として近代日本の未来の指導者たちに、論理学、哲学、政治経済学などの幅広い科目を教えた」(Robert Hughes, American Visions, The Epic History of art in America, The Havill Press, London, 1997)と述べられている。裏を返して言えば、岡倉の興味のあり方が反照されるようでもある。
ところでヘーゲルは先述したようにギリシア芸術を高く評価していた。ヘーゲルの美学をそのまま反映させると支那芸術が高く評価されるべきことになる。だが岡倉の『東洋の理想』ではインドと支那文明への敬意やそれに対する蒙古への蔑視は窺われるものの、ただしそれは文明に対してであり、ヘーゲルの美学がギリシア芸術に抱いたものとは別もののように見える。また日本美術において岡倉が評価するのは侘びさびなどの中世的な禁欲的精神主義である。へーゲルの「精神」は非物質性とも翻案されてヨーロッパのゴシックの評価ともなるが、岡倉の中世的なストイックな美学はこうしたゴシック/ロマン主義とも異なるものにも見えるのである。それではこの美学はどこからきたのだろうか。
仮説の鍵のひとつはやはりフェノロサにある。フェノロサは日本マニアのボストン・ボンズィーズ(Boston Bonzes)のひとりだった。ボンズ(英語の“bonz”は日本語の「坊主」からきている)にはフェノロサのほかにエドワード・モース、ウィリアム・スタージス・ビグロウ、デンマン・ロスなどがいた。「彼らが日本に求めていたものとは?」と、ロバート・ヒューズは述べる。「ひとことで言えば、“relief”である。アメリカンライフの浅薄な物質主義や倦むことのない「進歩」の自慢話からの、彼ら自身のピューリタンの遺産である摩擦と対立からの“relief”である。かつて拒否していた哀れむべき拝金主義に陥ってしまったが、昔のマサチューセッツピューリタンが誓った謹厳に匹敵する精神的美的生活を、彼らボンズたちは日本に見出したと信じたのである」(Robert Hughes, 1997、p243-44)。ボンズたちはまたエマーソンの著作にも親しんでいたようである。そしてボストン美術館東洋部門の長を務めていた岡倉は、フェノロサを通してほかのボンズたちとも近かった可能性が高い。
この点から見れば、岡倉のヘーゲル主義はそれゆえ19世紀アメリカ超越主義経由のヘーゲル主義であり、またその美学の根底にあるのはピューリタニズムの美学ないしはアメリカ超越主義の美学であるとも言えるのではなかろうか。裏を返して言えば、アメリカ超越主義の一部は「日本主義」へと分岐していったとも言えるだろう。