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バート・ヒューズの『アメリカン・ビジョンズ』(デイビット・ワトキンの『イングリッシュ・ビジョンズ』を意識しているのだろうか)にはボストン・ボンズィーズに先行するジャポニストとして、ジェームズ・アボット・マクニール・ホイッスラーが登場する。ホイッスラーはロンドンの画家と目されているが、生まれと育ちはアメリカである。
ヨーロッパからすればのちのプリミティズムのようなものだったのかもしれないが、19世紀後半のヨーロッパ芸術はジャポニズム抜きには考えられない。アールヌーボー建築においてもジャポニズムの影響は大きい。チャールズ・レニー・マッキントッシュグラスゴー美術学校はその内部において日本建築の影響が容易に看取されるし、ワーグナー・シューレのレンダリングには浮世絵の影響が顕著である。
ヨーロッパにいたホイッスラーは本国より早く(?)ジャポニズムに傾倒したことになるのだろうか。ヒューズによれば、パリに最初に受け入れられたアメリカ人芸術家はホイッスラーという。ギュスターブ・クールベと協働し、アンリ・ファンタン=ラトゥールの『ドラクロア礼賛』にも群像中の一人として描かれ、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』に登場する“Elstir”はホイッスラーのアナグラムであるという。ホイッスラーは機知に富み、ダンディーで、そして「カミカゼの美学」を持っていたと、ヒューズはまた述べる。
ロンドンの富豪フレデリック・レーランドのために描いた『ザ・ピーコックルーム』の壁画は歌麿の「鳳凰鳥」(1804)が霊感源になっているという。ホイッスラーはこの絵を内輪だけでなく、広く公開することを望んだ。それに対してレーランドは支払をギニーではなく、ポンドで行うという行動に出た。これは「商品」に対してはポンドで、「作品」に対してはギニーで支払うという当時の慣習を逆手にとったホイッスラーへの報復だったとされる。さらには評論家のジョン・ラスキンに自分の自信作が酷評されたことに腹をたて、ラスキンを訴えるという行動にホイッスラーは出る。裁判には勝ったものの、スッテンテンになってしまった。
イギリス画壇の中心人物だったと目されることもあるホイッスラー。「彼は二度と母国の土を踏むことはなかったし、母国の先導者として称えられてもないだろうとおそれていたが、しかしそこにおいてホイッスラーはおおいに賛嘆されていたのである」(p242)