『テクトニック・カルチャー』には、日本語の「島(シマ)」と「締(シメ)」の関係について述べたくだりがある。ただし英語の“knot”や“nexus”との類縁が示されるだけで、詳述はされていない。
「島」は陸上から見るとただの陸の塊だが、海上で見ると交通の結構(結節)点である。島伝いに海を渡っていたかつての日本人にとって「シマ」は行程の「シメ」であり、それゆえ“knot”であり、“nexus”の結構点をなしているわけである。またシマを目指して洋上航行している船から見れば、その島影は空と海のあいだの水平線上にまさに「シメ」として(かつ「シミ」としても)見えてくるものだろう。
ロクサーナ・ウォータソンの『生きている住まい、東南アジア建築人類学』(布野修司訳、学芸出版社、1997)によれば、原・日本人は現在の中国南部あたりから台湾、南西諸島を経て日本にやってきたのだそうだ。「おや」と思う人もいるのではないだろうか。狩猟採集生活をする「縄文人」がいて、稲作農耕文化を持った「弥生人」が北方から渡来してきたのではなかったのだろうか。
ウォータソンと似た仮説を唱える人はほかにもいる。『海上の道』の柳田国男である(岩波文庫、1978)。同書において柳田は、日本が海洋国であることに着目し、大陸からの陸上ルートではなく、海上ルートを経て稲作文化を持った原・日本人が黒潮にのって漂着したと見ている。この思考の契機になっているのは日本の海岸には南方のココ椰子が自然と漂着するということであり、『古事記』や『日本(書)記』の中巻(人皇の部)の始まりをなしている「神武・東への道」が宮崎の高千穂から始まっていることである。高千穂にやってきた彼らはそれではどこから、なぜやってきたのだろうか。ココ椰子のようにただ黒潮にのって漂着しただけだったのだろうか。
柳田の仮説によれば、徐福伝説に見られるような東方浄土信仰や蓬莱扶桑神話ももちろんあるが、しかしそれ以上に着目すべきはひとつは宝貝であり、もうひとつが稲作であるとされる。沖縄は世界有数の宝貝の産地であった(ある)という(日本は真珠の産地である)。宝貝は呪術的な含み(1000年前までの日本では、数珠つなぎにした首輪をかけることが普通だったという)を持っており、これがいわば大航海時代重商主義時代における貴金属と同様なアトラクターとなったのではないか、という考えである。そしてもうひとつは、各島で開墾された水田が次第に手狭となり、過剰となった人口が隣の島に本格的に住まうようになり、徐々に移動していったという考えである。
同書に付された大江健三郎の解説に引用された中村哲夫の文では、「稲作文化を伴う弥生式土器の南限は沖縄の先島に及ばないために、考古学の領域は、北方からの文化南下説を有力にしているが、柳田もそれに正面から反対しているわけではない。しかし黒潮の流れにそった『海上の道』を終生の課題とした彼は、この最後の遺書ともいえる問題の書のなかで、原日本人の渡来については、沖縄の人と文化が南方とつながりをもつことに注目して、その論理の延長の上に考えようとする思考がある」と述べられている。
古事記』や『日本(書)記』の上巻(神代の部)での世界創生は、イザナギイザナミが海のなかに入れて掻き回し取り出した天沼矛の先から滴り落ちて生まれた島々が、(当時の)ヤマトであるとされている。沖縄の天地開闢神話もこれとほぼ相同なのだという(アマミキュ・シネリキュが掻き回した矛先から滴り落ちて生まれた島々が・・・)。
ところで島尾敏雄奄美を「道の島」と呼ぶ(『ヤポネシア考−島尾敏雄対談集』、葦書房、1977)。それはヤマトから見れば南の島であり、沖縄から見れば隣の島であり、行程における文字通りの「シマ」なのである。名に付されている「奄美」は当て字ではないかとはしばしば言われる。柳田の『海上の道』では「天見(アマミ)」という言葉も出てくるが、天(アメ)と海(アマ)とするなら天海(アマミ)ともとれる。「道の島」はまた、「天」と「海」という二つの霊界のあいだの文字通りの結構点でもあるのだろう。古・日本語の天(アメ)と海(アマ)がほとんど同じなのも、洋上では水平線を対称軸としてこの二つが鏡像のように見えるからではないだろうか。
建築論でしばしば登場するハイデッガーの「四謂集」(空と大地と死すべきものと・・・)なるものは、ここでは「天(アメ)」と「海(アマ)」と死すべきものと・・・となるのかもしれない。