古事記』(福永武彦訳、河出文庫、2003)の第一部では、「米/稲種」に関する話は二度ほど登場する。一度目はアマテラスオホミカミ(天照大神)とタケハヤスサノヲノミコト(建速須左之男命)による「うけいの勝負」のあとである。うけいの勝負に勝ったスサノヲノミコトは調子にのって「姉君が手ずから作っている田の中に踏み入って、畔をめちゃめちゃにしたり、田に水をそそぎ入れる溝を埋めたり、またその年の新嘗をいただく神聖な御殿に、糞をして廻るというような、狼藉の限りを尽くした」(63頁)ことになっている。
二度目は、その乱暴狼藉者のスサノヲノミコトが高天原から追放され、オホゲツヒメノカミ(大気津比売神)を殺したところ、その体から「五穀」(蚕、稲種、粟、小豆、麦、大豆)が生まれた、というくだりである。
前後関係からすると矛盾するように見えるが、高天原にはすでにあった米/稲種が、オホゲツ姫殺害と同時に地上にもたらされたということなのだろう。
アマテラスは名前の通り太陽神で高天原を治める女神だが、稲作と関係が深いことが最初に示唆される。また「五穀」は(蚕を「穀物」とするかどうかはともかく)数えるとここでは「六穀」である。
海上の道』の柳田は南西諸島の記録記憶(「おもろ」、『中山世鑑』ほか)において「ニルヤ(海の隠れ里)」から人界にもたらされたもののなかでとりわけ重要なものとして、「火」と「米/稲種」を挙げている。「米/稲種」はほかの「五穀」に比べ、特別なものであることが示唆される。「注意すべき一つの特徴は、最初白色の壺に入れられて、火高の浜に漂着した五つの種子の中には、稲の種はなかったという点である。それでアマミキョは天に祷って、ワシをニライカナイに遣わして求めさせたら、三百日目に三つの穂を銜えて還って来た云々と『御規式之次第』にはあり、奄美大島の方では鶴がその稲穂を持って来たことになっていて、伊勢の神宮の周辺にあったという言い伝えともやや接近している」(81頁)「(沖永良部島では)その時ニラの大主は是にこたえて、まだお初祭をしていないから物種は出すことができぬと言ったというのは、すこぶる我邦の新嘗の信仰とよく似ている。島コーダ国コーダ(島建国建)はそれにも構わず、折角きたのだからただ戻ることはならじと、そっと稲の穂を摘み切って袂に隠し、遁げて帰ろうとしたが、ニラの神に追いかけられて打ち倒されて、ニシントー原アメノカタ原という処に、目こぼれ鼻こぼれして死んでいった。天の神は心配して使を遣り、薬を飲ませて生き返らせ、稲の穂は再びニラの島に持参して元の穂に接ぎ、初穂の祭りがすんで後に、改めて同じ種を乞い受けて来させた」(82頁)。
米/稲種はほかの穀物に比べ、特別なものとしてあろう。
国民経済学の書(つまり『国富論』)では、狩猟採集(日本語/漢語の「狩猟採集」は英語の“hunting foraging”からの造語/訳語ではなかろうか)をしていた人類は、やがて獲物を手なずけて家畜化することで食物の入手を確かなものとし、さらに家畜は生まれてから食用になるまで数年かかるが、穀類を人工的に栽培すれば毎年確実に食物が手に入ることを見出し、さらにその穀類のなかでも、じゃがいもから小麦へ、小麦から米へと、単位あたりのカロリーが高い種の栽培へと進んでいった、という記述をしていた。稲はまた二毛作も可能である。
米(稲種)は長い時間をかけて見出された、特殊な穀類なわけである。