「結構」という言葉が支那からきているとして、思い出されるのは12世紀初頭の宋代において著された『営造方式』である。ここでは伽藍建築のひとつの完成形がハンドブックとして表されている。有名な伽藍の断面図では、セラミック(瓦)のルーフワーク(屋根)、石のアースワーク(基礎/基壇)、そしてそのあいだの木組みのテクトニック(結構)が図式的に示されている。こうした形式は12世紀宋代において、だいたい完成していたわけである。
ずいぶんむかし学生時代、太田博太郎の『日本建築史序説』や川勝政太郎の『古建築入門講話』などを片手に「あれは三手先、これは禅宗様」などと、近畿あたりの日本の古建築を見てまわったものだが、こうした断面をいま見るとまた違って見えてくる。
蛙股や斗拱といったものは、ブラケットや複合ブラケット・システムをなしているように見える。木造結構のフレーム(ラーメン)構造は、基本的に木のめり込みによって外力を吸収する仕組みになっているとされるが、こうしたブラケットの二次システムを用いることで、反力や応力を分散させ、また一次部材を保護しているのだろう。ところで木がなぜめり込むかといえば、木はセルロース繊維からできているからである。
営造方式』は継ぎ手の図解も載せている。そこには腰掛蟻継のような、今日の日本の大工が伝統工法として用いるものによく似たものもある。
日本の大工が日本の伝統工法と思っているものには、支那から仏教伽藍とともに入ってきたものも多いのかもしれない。それにしても『営造方式』から900年もの時間があったにもかかわらず、大きな改良も施さず、批評的な思考も働かさず、地震がくれば倒壊し、台風が来れば吹き飛ばされ、火事になれば燃え、支那でほぼ完成された形式をみずからの伝統技術と称し、“eternal repetition”のようにひたすら伝承することに、日本の職人衆は価値を見出して来たのだろうか(あくまで疑問形です、念のため)。そのいっぽうで外来種のように嫌われたツーバイ工法の原型とされるバルーン工法は、19世紀末の欧米における日本ブームにおいて日本建築の影響も受けているという説もある。
フランク・ロイド・ライトのプレーリーハウスなども、なかに入るとまるで日本家屋にいるような感覚を覚える。
ライトと日本の関係についてはケヴィン・ニュートの本に詳しい。そんなライトの自伝には、よからぬ日本人が一人だけ登場する。固有名は記されていないが、下田菊太郎ではないかと勝手に推測してしまう。