「“Der Stil”の既刊部分はテクスタイル、セラミックに主として充当されている。それにテクトニック、ステレオトニック(引用ママ)がつづくがこれらは建築的要素だけであり、最終刊で建築をその全歴史として検証する予定になっていたが、その四つの要素間に次のようなダイアグラムが充当されている。


I  テクスタイル(編組)−布―強靭材―囲い(平面)
II セラミック(陶器)―陶−可塑材−炉(彫塑)
III テクトニック(結構)−木―棒状材−屋根
IV ステレオトニック(石工)―石―堅硬材―壇(量)
(この後にVとして金属技術の項があるが、建築の四要素には直接対応する扱いでないため、ここでは省略する。)


 それぞれの要素は、a機能的/形式的、b技術的/歴史的という視点から、検討を加えられる。形態と作用、製法と歴史的事例が多くの実例を用いて説明されている。ここで特徴的なのは道具的な視点の重視と、歴史さえも民族学的な空間のひろがりのなかにおいて論じられている点でもある。それは技術史のようでもあり、建築の素材史のようにもみえる。少なくとも、もはやここには先行する決定的モデルとしての古代ギリシャはない。もちろんギリシャがもっとも参照される頻度が高い。セラミックにいたっては、ギリシャの壺についての本であるかにみえる程でもある。
 要素に分解することは、その作用因の全体とのかかわりについての確固たる関係が組みたてられていなければならない。ゼンパーにとって、その関係は函数である。
  芸術作品は何れも、種々の変数たる作因または力の函数として表すことができる。
  Y=F(x,y,z・・・・・)
Yは総合成果、x,y,z・・・・・はそれぞれの作因であり、その基本作用ないし相互の関係がFで示される。xが変わればYも変わるが、その変化は僅少に止まる。しかしFが変わる時、Yは根本的に変化する」 磯崎新『造物主議論』鹿島出版会、1996 97-98頁




難波和彦先生がご自身のブログで拙訳書にコメントをされています。コメントいただいたこと、まずはお礼申し上げます。
また翻訳の用語について、第三者の立場からのコメント、有難うございます。
“テクトニック(tectonic)”という言葉についてですが、「結構」と和訳することが、2007年10月21日の当ブログでも書かせていただいたように、やはり相応しいと考えています。大倉三郎や磯崎新先生といった優れた建築学者や建築論者の諸著作のなかでそう記述されてきたということもありますし、この言葉はもともと日本語において建築用語だったし、いまもそうであるということもあります。フーテンの寅さんが「結構毛だらけ猫灰だらけ」と言っても、やはりこの言葉はほんらい建築用語なのです。
『テクトニック・カルチャー』の冒頭の方にはハインリヒ・ボーバインの「テクトニックは結合の技芸となった」という一文で始まる引用文があります。“tectonic”においても「結」は鍵概念としてあると思います。また日本語のカタカナ表記は原則は固有名に対してであるので、相応しい漢語があれば、漢語に変換するというのは方法のひとつだろうと思います。「結構」は語源を遡っていくと実は中国語なので、“tectonic”を「結構」としても、日本語を素通りしていると言えなくもありませんが、漢語なしの日本語というのも不自由なものです(ちなみに(現代)中国語の「結構」は日本語の「構造」に相当します)。
いずれにしても2007年10月21日の当ブログにも書かせていただいた理由から、同じ著者の別の著書において“tectonic”を「構築的」と和訳するのは初歩的な誤りだろうと思います。誰にでも誤りはありますが、意図的だったり、売り文句にしたり、繰り返して強調すれば、いささか致命的だろうと思われます。
また「ステレオトミック(切石組積)」ですが、語源として「切る」を意味する「ステレオス」がかかっていることは本文に書かれているとおりです。「ステレオトミック」自体は同書の主題ではありませんが、「結」に対する「切」は含みを持っているのでしょう。単純に積んでいけば要素の大きさの誤差と強度の不均衡の累積によって、計画通りのものができない可能性がある。この点で「正確に切る」ことが重要となり、これはその出自において農業的である結構術とはいささか異なる工学術や都市文明を前提とするからです。また「構築(con- strata)/積層」という言葉は、どちらかといえばこの「ステレオトミック」という言葉の方が親和的だろうと思います。
ここから先は難波先生のコメントからは少しずれます。
フランプトンさんの文章は、関係代名詞や分詞構文やリモート法や倒置法や二重否定などが多用されるいわゆるアカデミック・ライティングです。情報を効率的に伝達すべく一文一行的な原則で単文を付加していき、どちらかといえば接続詞できりまわしていくジャーナリスティックな構文とは、文章の特徴は異なっています。この構文をいったんばらし、単純な文に並べ替えればあるいは読み易くなるのかもしれませんが、こうした方法は翻訳というよりは抄訳に近い方法ではないかと思います。
アカデミック・ライティングと書きましたが、『テクトニック・カルチャー』より練られたライティングは、もちろんあります。個人的なところではK.マイケル・ヘイズの文章の方が、練られたライティングだったような印象があります。いささかやっつけ的な訳だったかもしれませんが、あとがきには余計なことも書いていますが、本文の論旨は実に鮮やかなものです(K.マイケル・ヘイズ『ポストヒューマニズムの建築、ハンネス・マイヤーとルートヴィヒ・ヒルベルザイマー』拙訳、鹿島出版会、1997)。この書の論旨についてはフレドリック・ジェームソンによる、「マイケル・ヘイズはここで『ポストヒューマニズム』という新しい概念を生み出しているが、これはハイモダニズム内部にあった反モダニズムの潮流を、ポストモダンとはまったく違った精神から明らかにするものである」という説明がよく示しているように見えます。
1990年代、太平洋の両側でハンネス・マイヤー論と池辺陽論が出版されたとき、よく似たことをいう人たちがいるものだなと、思ったものです。また90年代の池辺論やマイヤー論に匹敵するものが2000年代に登場したか、それはなんともいえません。シルビア・ラビンさんのリチャード・ノイトラ論はいい書と思いますが、ポスト構造主義の諸理論が縦横無尽に駆使されているヘイズの論に比べると、理論書としてはいささか弱いかもしれません。
以下は個人的な考えですので、お気に召さなければ捨て置いてください。
ヘイズの仕事の主題は“class representation”にあると言われることもありますが、マイヤー論では物象性(reification)も鍵概念としてあります。同様の視点は池辺論にもあるように個人的には見えます。また住宅を手がけてきた建築家も、住宅産業とよばれるものも、もちろんこれまでもあったわけですが、作用因までを含めていったん物象的に捉えなおし、90年代において新たな作業仮説において組み直したことは、新鮮に見えました。「建築の四要素」という整理の仕方も、ゼンパーの四要素やアリストテレスの四因論との類縁性を髣髴させます。
さらにどんなによい作業仮説を組み上げても、それを実践することはまた別の次元での困難を伴います。仄聞するところではシリーズとして120あまりの住宅をすでに手がけられたとか。
私などにはとても模倣できないことです。