LIGHT YEARS AHEAD, THE STORY OF THE PH LAMP, edited by Tina Jorstian and Poul Munk Nielsen, color photography by Bent Ryberg, translated by Tam Mcturk, translation centre, University of Copenhagnen, Louis Poulsen, second edition 2000







ポール・ヘニングセンの3シェードPHランプがルイス・ポールセン社のカタログに登場するのは1926年であり、それゆえPHランプは1926年作とされる。もっともそれ以前、前年のパリ装飾博でのパリランプや、未完に終わったトルバルセン美術館での1923年の照明設計において、PHランプの原型はかなり出来上がっている。パリランプで初めてルイス・ポールセンと協働し、またトルバルセンの仕事はコーア・クリントからのものだった。クリント派の線ということでは、のちの建築家ヨーン・ウツソンによるシドニーオペラハウスの当初案が思い起こされる。まるでPHランプのフィッティング(シェード)さながらのロガリズム曲線風フリーハンドラインの重畳による案である(のちに半径の異なる球体部分の複合へと翻案された)。
第二帝政時代のパリにおいてガス灯が普及したが、このことは都市の夜景を一変したといわれている。19世紀後半にはケロシンランプが登場し、さらに世紀末には電燈が登場する。それまで家庭内においては暖炉や蝋燭など、光源と熱源はだいたいにおいて同一だったが、このあたりから光源は熱源から独立したものとなっていったという。光源による煤や酸欠の問題もなくなった。これはちょうど20世紀におけるベンチレーターの登場が、採光と換気という窓の機能のうち、後者を部分的に窓から奪っていったことと類比できるかもしれない。
電燈はカーボンフィラメントのものからメタルフィラメントのものへと移行していき、白熱灯(incandescent bulb)が電燈(electric bulb)の代名詞となっていく。
電燈が抱える問題はそのまさに発光体としての性質にある。発光体表面の単位面積あたりの光束量が多いことが人工照明の性能の証明だが、これはまた同時にグレア現象の原因でもあるからである。
グレア解消の方法は大きく二つある。ひとつはバルブを乳白色のものとすること、もうひとつは、そしてこれがPHランプがとった解だが、フィッティング(照明器具)によって最も効果的に散光を制御することである。3シェードの場合、最初のもので50パーセントを、残り二つでそれぞれ25パーセントを意図した方向に無駄なく散光していくという。
1927年にヘニングセンはいわば近代照明の三原則のようなものを表明している。
1、器具による無グレア化。
2、必要とされる方向へと光を効果的に向けること。
3、用途にあわせた光色を選ぶこと。これはまたコストの問題でもある(一般に暖色光は電力消費が大きいので)。


照明装置ともども、発光体(電燈)についてもヘニングセンは考察を残している。電燈の機能は発光にあるが、ただ単に光束量を増せばよいというわけでもない。室内における人工照明の光量は同じ条件における太陽光のせいぜい1/100から1/200という。人工照明に求められることはそれゆえ、対象(物)の表面の色彩や肌理が肉眼にとって最も見えやすくするということである。これは光束量の問題ともども光のスペクトル構成の問題でもあろう。いわば演色性(the ability to reproduce colors and textures)の問題でもある。経済的な観点も加味するなら、暖色域の端が最も効果的なのだという。
ところで太陽光は日の出から日没まで、大気中の通過距離/入射角によって色や光量を変える。暖炉や蝋燭の炎もたえずそのスペクトルを変化させる。人工照明にはしかし、そうした多様性はない。あらかじめ設定されたスペクトルと光束量をただ均質に発光するだけである。
最も豊穣な光は反射光であると、ヘニングセンは考えていたという。