まったく野暮な話ですが、試訳(粗訳)を載せておきます。別のところ(9月18日)でも書いたことですが、「ピクチャレスク」という概念はあまりまともに(少なくとも日本では)理解されているようには見えません。この概念の語用は軽蔑的なニュアンスを込めて使われることもあるので、たとえば私の作品に「ピクチャレスク」と言われると私自身はいい気分はしないかもしれませんが、しかしながら18世紀以降のイギリスの美学やロマン主義を理解する上では概略くらいは知っておいた方がいいだろうと思います。古典的にはクリストファー・ハッシーによる1927年の論文やデイビット・ワトキンによる1982年の『ジ・イングリッシュ・ビジョンズ』などが挙げられるわけですが、1991年のシドニー・K.ロビンソンの『ピクチャレスク探求』(Sidney K. Robinson, Inquiry into the Picturesque, The University of Chicago Press,1991)の冒頭の章「混合(mixture)」の粗訳をあげておきます。後ろの章にはフランス革命とか貨幣のこととかそれぞれ興味深いことが論じられていますが、まるまる一冊は版権の問題もあるでしょうし(まるまる一章というのもきわどいところですが、学術書だし、ロビンソンはコロンビアの建築出身というし、大目に見てもらいましょう)、「混合」という主題を劈頭に持ってきたところも時代を感じさせると思います。この論文が唐突に出されると田舎学者の癖学問と思われるかもしれませんが、研究を支援したのはポストモダンの建築家と見做されているスタンリー・タイガーマンです。そういえばロバート・ベンチューリが書いた論文に「ラチェンズから学ぶもの」というものがあります。ラチェンズはいうまでもなくエドウィン・ラチェンズ、ブリティッシュ・ビクトリアン最後のマスターアークテクトのことです。
参考になる範囲でご利用ください。



第一章 混合

一八世紀末、「古臭い」庭園術を改良すべく期待された若いユベデール・プライスは、リチャード・ペイン・ナイトともども、ピクチャレスクの主要な提唱者となった。彼の改良は「古臭い」ものを「モダンなもの」に完全に置き換えることだった。のちに『ピクチャレスク』(一七九四)においてこのことを振り返りつつ、「モダンなものと混合することで、古いものも利用できたかもしれないのに」とプライスは後悔し、嘆いている。プライスはこの時までにすでに一書を著しており、ピクチャレスクはもはや「モダンなスタイル」ではないとも述べている。それは対立するものを混合するという態度の問題であると、彼は理解するようになっていた。同書ののちの版(一八四二)にはリチャード・ペイン・ナイトがポウィス城で似たことを行った話を、プライスは加えている。起伏のある広大な土地を、芝生を植生した滑らかなものへと体系的に破壊したという話である。ナイトはしかしながら、後悔の必要をまるで感じていなかった。なぜなら岩をどける必要はなく、ただその荒さを享受すればいいのだと、持ち主のジェントルマンをしてうまく説得していたからである。
間違ったことをしてしまったというプライスの告白は、混合をピクチャレスクの中心特性として打ち立てる。対立するものを探し出す構成とは、自らと異なるものを徹底して排除する首尾一貫という伝統的な理念から、重要なことに出てきている。プライスによる混合の推奨に関連する諸理念とそれが暗示するものについて、以下に見ていきたいと思う。
プライスはピクチャレスクな構成の一種を「分け隔てる明白な線」を持たず、「全てが混合され、一緒に調合されている(blended)」ものとして思い描いている。だがこう述べることで彼は、ピクチャレスクのこれとは全くの対極に位置する各部分間の「唐突な変化」という条件をさえ同定していく。各部分別個の性格というものはそれが「不断に混ぜ合わされた」としても、妥協しあうというものではない。それら個別の本性は容易には分離できない。しかしどうにかすると分離可能でもある。何が調合されるのだろうか、どの割合で調合されるべきだろうか、一八世紀後半の書物や雑誌記事に登場した審美的・政治的構成に関する論争の、どの程度までをそれは占めているのだろうか。
時間の蓄積と変化というのが、ピクチャレスクが提唱するある種の混合のモデルである。ナイトがピクチャレスクを建築に適用するとき、彼は「連続する時代を通してばらばらに、異なる民族や国家によって建てられ、混合された様式、・・・突出した特定の様式や装飾を持たず、あらゆる雑種を許容する様式」を推奨する。ピクチャレスクの強さと弱さの双方がこの雑種性に出自している。規則が固定してしまわないよう、ピクチャレスクな構成はさまざまな条件に変幻自在たり得る。反対にその選択において許容度が大きいことは、この構成が乱雑な背景へと消滅してしまう危険をも犯している。
自らと異なる他の主張や、漠然とした背景に吸収されまいと力を集中することは、まさにアイデンティティの欲求である。ピクチャレスクはこの点で一つの積極的な主張なのである。自らのアイデンティティが絶えぬ適応を要求するものであってさえ、背景との相違だけが意味を与える。それが完全に行使されると自己解体にいたるという雑種性の肯定は、一つの逆説であろう。ピクチャレスクの議論へと混合されるように折り込まれている、漠然なるものと、はっきりした矛盾のほとんどが、このアイデンティティの問題に出自している。
経年変化による効果は以前の組織状態と比較されて初めて分かる。時間が経過したのちに味わういかなる満足をも凌ぐ労力が、最初に組織的に注がれねばならない。プライスはイタリア滞在時、もともとのシンメトリー性が曖昧になっている庭園を見て喜んだ。古さと無制限な生成のこの混合は、さまざまな放置を適度に受けたルネサンス庭園の明快な構造に根拠を置くものだった。ここには二つの形式性があり、一つはそれが偽装であるゆえよいものであり、もう一つは剥き出しであるゆえ悪いものであり、この両者は何がしかのピクチャレスクな構成をそこに認めるという点からは分けられるべきものという。「公式の特有性を持った形式性と、現実であるにもかかわらず気楽で気まぐれに満ちた雰囲気を持った形式性のあいだには、大きな相違がある」。気まぐれという雰囲気の仮定は、ピクチャレスクらしさを確定しようという問題を、簡潔に要約している。
いかなる幾何学性にも基づかない庭園計画や公園計画へのイギリスの好みは、一八世紀初頭において発達したものである。とりわけジョセフ・アディソン、バーリントン卿、アレクサンダー・ポープといった人たちは、庭園芸術において「自然主義」を大なり小なり提唱したジェントルマン名簿の筆頭にあげられてきた。「自然主義」とは正確には何なのかという問題は、簡単には結論の出ない議論の始まりとなった。簡略化された議論ではこれは、人工物はどの程度まで自然の外観、あるいは自然の見えない法則に従うべきなのかに焦点を当てた論争としてあった。明快な伝統的幾何学による人工物と、自然から派生した不規則で曖昧なものを混合するという中間地点を占めようと、ピクチャレスクは試みた。自然の外観は参照項だったがしかし、設計者は樹木や岩を理想的構成にしたがって配列する自由を手放さなかった。
何気ない一瞥においては、植物学的あるいは地質学的な自然は、形や、色や、肌理において多様に見える。生成し、変化もする。人間の理想型に照らし合わせれば、自然はあらゆる明快な規則から派生したものに見える。混合をピクチャレスクの審美的推奨の特筆すべき性質とすることで、ピクチャレスクの構成に感覚刺激が導入されたが、この感覚刺激とは理念化された自然の探求において混乱を招くものであるとして、伝統的に排除されてきたものだった。
ある人たちによれば、ピクチャレスクは自然を欺瞞的に利用するものだった。それは自然を参照はしたが、自然は従順ではなかったからだという。人間による構築物を導くものとして自然の昔ながらの権威ある関係に訴えようとした人たちは、自然や社会に対する既成の、それも多くの場合支配的な関係を正当化するためか、さもなければピクチャレスクな混合が要求する自然と人工物のあいだの終わりない問いを避けるために、そうしたのだった。
一七一二年六月から七月にかけての『スペクテーター』紙におけるアディソンの諸論文は、より包括的な審美的見地を紹介している。これら諸論文において彼は、当時大きくなりつつあった「自然の荒く意図せぬ筆さばき」への関心を、伝統的な「技芸による装飾的で柔らかな筆さばき」へと繋ぎ合わせる。「偶然が設計効果を有しているように見える」という新しい悦楽のアディソンによる発見は、審美的という点からみた構成の理論と呼べるだろうものの初期段階における展開である。審美的対象における荒く意図せぬものを真面目に検討することは、それまで皮相な作品を切り捨てるためにピクチャレスクを考えていた人たちには、複雑な含みをもたらした。
初期においてもっと自然な庭園を主唱したもう一人の人物はロバート・カステルである。彼の『古代の邸宅』は一七二八年に出版され、この書はまたバーリントン卿に捧げられたものでもあった。同書において彼はローマ庭園の三つの発展段階を分類している。第一段階は荒く素朴な段階である。第二段階は規則と直線に従って配されるという。第三段階は「自然の忠実な模倣である。この段階では各部分は大いなる技芸によって処理されてはいるが、不規則性はまだ残っている。その結果、手法は手業に満ちた混乱などと不届きにも言われるものではなく、熟練の技による外観でもなく、自然な形態をした岩や、滝や、樹木が用いられる」。最初の二つの段階は直接的な言葉で明確に述べられ得る。第三の段階はしかしながら、例外や婉曲を要している。「されてはいるが」や、「まだ」や、「不届きに言われるものではない」といった言葉の使用は、それを理解するのにその外観をもってするのは不充分であることに注意を促している。この第三段階は「自然形態」を想定させることで、人為から注意を逸らしているのである。カステルによる段階説は、支配の獲得と行使は最終的に内省的自己意識と確信の域に到達し、これがノスタルジアからであれ、新たに獲得した洗練からであれ、初期段階を表象することを選ぶことを認める。
支那との関連はこの混合的な庭園設計を支持するもっと適切なものの一つである。一七二四年にフラ・マッテオ・リパによってヨーロッパに紹介された支那庭園の景色に対し、バーリントン卿や、自身支那に赴いた経験があるウィリアウム・チェンバース卿といった人たちは、その庭園芸術だけでなく、政治道徳性においても、儒教支那共和制ローマに結びつけた。磁石に引寄せられた鉄屑のような絶対的配列から自由な部分を持つ新しい構成なるものが、市民個人と国家のあいだのバランス、自然の特質と人工物の配列の調和という、彼らが望んだものを満足させることに気付いたのである。
混合はその構成要素を同定することで始まる。各々の要素が受容されるべきかどうかを決めることは、混合の主唱者のさしあたっての関心事ではない。要素の選択という問題を、全体構成に貢献する多くのものを認めることへと、一足飛びに彼らは置き換えたのである。各々の要素自身からその要素間の関係へと、ピクチャレスクは関心をずらすのである。別の状況においては受容できない要素であっても、ピクチャレスクにおいてはすぐさま抹消されることはたとえそれが可能であっても、まずない。対立の範囲はそれゆえ広範囲にわたって許容され、要素を抹消することではなく、いかに配するかの議論となろう。
荒さ、唐突な変化、不規則性がピクチャレスクな構成の力、あるいは「原因」であるとプライスは同定していた。だがこれではまだ半分しか語っていない。ピクチャレスクはこれらの特質のみに拠るのではなく、これらの要素をその特質を欠く構成へと混合することにも拠るからである。これら特質を推奨するのは、あまりに滑らかで平均的と見做される構成が支配的であることに対してなのである。荒さ、唐突な変化、不規則性はかくも感覚的な刺激なので、混合というもっと魅力的原理を曇らせてしまう。
これら三つの視覚的特性のみに焦点を当てた者たちによって、プライス自身は誤解されていた。一七九四年七月一日付のハンフリー・レプトンの書簡への返信で、プライスはこう抗議している。「野性的で無作為なある種の情景を好意的に語ったことから、もしもその力があればあらゆる心地よい物を破壊するだろうと、私は誤解されてきた。(少なくとも私自身にはそこから始めるのが相応しい)砂利道や潅木には剪定の手を入れてはならず、背の高い草の露のおかげでびしょびしょになり・・・野薔薇や棘のあるブライアで服はちぎれ・・・轍のあいだで膝まで泥につかるよう仕向けるだろうと、私は誤解されてきた」。プライスの単純な主張が暗示しているものとは、ある極端をその対極に置き換えることは、混合のもっと根本的な原理を直接脅かすということである。荒さと唐突な変化を「対立する特質」と同定することで、プライスはこうした偽表象を先取しようとしたかもしれない。連続する荒さは連続する滑らかさと変わるところはなかろう。唐突な変化こそが混合を確かなものとする特質だからである。
一七六七年に始まり一七八三年に新版が出た『英国庭園』というウィリアム・メーソンによる詩は、混合をきわめて直接的に推奨しているように見える。メーソンとは庭園設計をめぐる議論に関わった二人のジェントルマンの苗字であり、もう一人はジョージ・メーソンである。ウィリアム・メーソンは議会改革にヨーク同盟から参加していることから、当初は政治的にはリベラル派だったものの、彼自身の評価によればフランス革命とその余波のなかでの四部五裂ぶりへの幻滅から、のちにイギリス貴族階級の強力な同盟者となった者である。「古代に倣った視界(ビスタ)を遮断すべき」かどうかを問われ、視線を枠付けている規則性のあらゆる痕跡を伐り倒すのではなく、一列に植栽されたナラに新しい樹木を散在的に付加することを、メーソンは提案している。相応しいとされる好みが拒否するパターンをも含む懐の深さが、ここで示すもっと複雑なピクチャレスクにメーソンを帰す顕著な立場なのである。その政治信条が変わったとしてもメーソンがとり続けた立場とは、不規則性という立場だった。懐深さの表現に先立ち、何であれ真直ぐなものは「流れるような曲線」へと溶解されるべきであると、彼は薦めている。第一書の注においてメーソンは一七世紀の建築家ヘンリー・ウッテンを、建物と庭園が異なることを示すのに効果的に引用している。「構造体が規則的であるべきように、庭園は不規則的であるべきである。あるいは少なくともきわめて野性的な不規則性に則って造られるべきである」。混合という考えは新しいものではなかったが、それを適用する大きさは違っていた。ピクチャレスクはそれをかつてない小さなスケールと、かつてない大きなスケールの双方で適用したのである。
哲学者のケイムズ男爵による『批判の諸要素』では、混合は最も大きな審美的満足の源であると認識された。類似における差異と、差異における類似の双方を結びつけることは、驚きをもたらす。しかしながらそれが何度も繰り返されれば、類似と差異の対立や変換はもはや驚きを生み出さないと、ケイムズはさらに続ける。壮大さと細かさ、規則性と野性味、愉快と憂鬱の入り混じりは音楽の構成においても、視覚の構成にもおいても成功をもたらす。混合を満足させる対立用法がケイムズの書において最も鮮やかに描かれるのは、その庭園術の描写においてである。「大都市近郊の庭園は人里離れた雰囲気を有」さねばならず、一方で大都市から離れた庭園は「自然の模倣を避け、並々ならぬ規則と技芸の外観をとら」ねばならないとされる。「よく手の入った環境」と「荒れた田舎」の対比的操作は「よい効果」を生み出す。ある地域全体における混合のスケールの鮮やかな例がここにあろう。
唐突な変化は、新奇によって混合を生み出す。感覚の中断から生ずる「苛立ち」のよい効果をリチャード・ペイン・ナイトは認識していたが、これも繰り返されれば「陳腐で退屈な」ものと化してしまう。「当初感じていた快を復元しようと、何か新しい印象を当然のごとく我々は探す」。だが新奇を推奨しながら、それに過度に耽るなら変化への欲求自身は病的で退廃的なものとなるという警告を、彼はまたすぐさま発する。刺激の不在、あるいは刺激の不表象というこの特質はもともとの感覚に訴えるあらゆる議論から、ピクチャレスクを分けるものである。混合はもともとの正しいバランスを回復させるものではなく、対立が連続するよう維持するものなのである。かつて新奇だったものは陳腐となるし、その逆もまた真だろう。構成要素の機能は時間の持続のなかで決まるのであって、その内在的本来性によって決まるのではない。
驚きや新鮮さを超え、新奇は好奇心を刺激する。新奇によってもたらされる多様性は少なくとも当分のあいだは、慣れ親しんだ退屈さへと構成が退化しないよう保つ。感覚刺激から結果する一つの結末は、いかなる一つの審美的刺激にも注意が長く留まらなくすることである。プライスにとって「苛立ち」は能動的でいきいきした快の源である。柔らかで穏やかな感情は「せかせかして、そわそわして、性急な」感情によって遮断される。よく仕上げられた芸術作品の長い熟考は、移ろいやすく、変わりやすく、落ち着かない活力や鋭い衝撃に置き換えられる。審美的知覚の速さも忙しいものとなろう。
対立する感覚刺激を混合する欲望は、風景の構成においてはすでに常套となっていた。一八世紀中葉の象徴庭園における新しい審美様態の主要な例と見做されていたリーソウズ風景庭園の所有者でもあった詩人のウィリアム・シェンストンは『庭園術の断章』(一七六五)において、「もしも野生の場面から目を転ずるのでなければ」広い芝生は「いかに美しいものであっても、うんざりして飽きてしまう。両者があって優雅で新奇なものとなり得る」と観察している。
予想される連続性を遮ることが、この遮断にオリジナリティのようなものを加える。唐突な変化は、それが新しい始まりのように見える刺激へと注意へ向ける。唐突な変化があまり唐突でなくなるにつれ、それはだんだん滑らかななものとなり、当初の連続体へと近付いていく。荒さは仕上げを必要とすると慣習的に考えられている。それを仕上げとも見做すピクチャレスク以外のところでは。