(ピクチャレスク/承前)


ピクチャレスクは過剰条件への明確な応答である。過剰な刺激によって感覚器官の鋭敏さが失われることは、ある条件が過剰にもたらされれば、緩和や変化が必要とされることを示している。許容量に達する感覚器官はあきらかに小さめのものである。すぐに飽きる。個人鑑賞者として知られるこの小さめの経験体は、感覚刺激の割合の増加に対応している。新奇は素早く理解され、そして素早く忘れ去られる。多様性が積極的価値となろう。だがシェンストンが警告するように、多様性もある種の規則性や予測可能なパターンとなれば、それは大きなスケールでの単調さへと転じてしまう。「装飾を際立たせるには・・・無装飾な空間が充分になければならない」。過剰条件の大きさがどれくらいであるべきかは、この議論にとって重要な要素である。いまは感覚受容者のレベルで大きさを考えているが、やがてそれは鑑賞者の自然に対するスケールや、他の人々とのスケールで再考されるものである。
要素単体から連続する要素パターンへのスケールの移行は、ピクチャレスクが結合の重要な問題を扱う方法の一つである。次のように書くとき、シェンストンはスケールの問題を直接的に述べている。「もしも宇宙を理解できたなら、我々はおそらくそれを均一で規則的と見出すかもしれない。だが我々が見ているその一部は、我々の想像をその対極へと慣らしていく」。部分と全体の変わり行く関係性への彼の認識は、ピクチャレスクを知覚の新しい枠組みとして強調する。人間が大きなシステムの特性と思っているものを少ない事例から判断すれば、それは構成描写を問題あるものとする。
審美経験のゆっくりした蓄積は、差異や新奇の刺すような鋭さや衝撃に道を譲っていく。アディソンは文学表現によく似た混合表現を見出している。「高貴な隠喩は利点としてそのまわりに輝きを放ち、そして一文全体に光を放つ」。輝かしい光はそのまわりのあまり明るくない部分に、ロンギヌスの崇高な「雷光」よりは随分と小さなスケールで一条の光を投げる。その光は素早く鋭い。その苛立ちは感覚刺激のパターンを中断し、精神または目は、すぐさま唐突な変化へと追従する。予期せぬ唐突さが新奇をもたらすのである。
新奇による不連続や唐突さはまた慣習的な期待を混乱させ、不満ももたらす。一七一二年九月七日の論文でアディソンは「もしも初めてわが国を見る外国人が、この国に訪れてすぐ私の庭園に連れてこられたとすれば、互いに入り混じり、分かち難くなっている果樹園と花園、キッチンと花壇の混乱は自然で野生のものであり、それゆえわが国の未開の部分を見ていると思うだろう」と描写している。それは「最も大きな多様性を構成するだろう」とも言う。ピクチャレスクの核心原理である混合の配列に、訪問者として登場するものの知覚精神の新鮮さを、この描写は追加している。
この旅行者は新奇なものを探している。すでに知悉しているもの、馴染み深いものは眼中にない。「外国人」は終わりなき驚きを求め、好奇心を追求するものである。彼は心地よい刺激を求めて動き回るもののことである。自然世界のさまざまなものを一箇所に配列して混合すれば、休暇中の者ならともかく、明確な範疇に基づいて日々忙しく生活している者には、混乱をもたらす。混合はそれ自身「自然野生」の記号だろう。旅行者が見ているものは彼にとって初めて見るものでもあるゆえ、それはそういうものだと彼が想像していることに欺瞞がある。用心深い旅行者ならそこにやらせがあることを見分けるだろうし、少なくともそういう可能性があると思うだろう。現地の住民が欺かれることはまずない。混合が造作された構成物の結果と気付くだろうからである。これらの基準から結果するものは実際、紛らわしいとはいえ、しかし野生の自然ととられることはないだろうと思われる。
新奇が持つ多様で込み入った効果を、「快の普遍的源泉」へとプライスは格上げする。とはいえ荒さへの自らの快を、普遍であるとする教条性からは彼自身は一歩引いていた。自分の感覚が他人のものとは異なっているという慎重さが、もっと一般的命題へと彼を強いていった。プライスが明らかに動揺したように、ピクチャレスクな情景に囲まれて生活している人々は、それとはまったく対極の性格をもった情景を有難いと思っていたのだった。ウェールズでいくつもの自然の滝を抱いた「ロマンティックな」場所を歩きながら、その喜びを土地の所有者に彼は正直に告げた。しかし「私が感じた喜びに、彼はまったく困惑した。さらにそれら情景への私の敬愛を無駄であると反発しているようにも見えた。『ここで止まらないでくださいよ』と彼は言った。『見るべきものを一つ一つお見せしますからね』。そして切石が三段積まれた下へと小川が導かれている場所にやってきた。『ここですよ』、彼はおおいに勝ち誇ったように言ったのである。『これはわが国屈指の丁寧な石造物であるポンティ・プリッドを造ったエドワードの作です』」。この出来事は二人の距離を物語っている。その経験が限られているために、自然への支配をある程度示す証明として、自然に堅く抵抗し、丁寧に造られた物に価値を見出すようになった者と、経験豊かでなおかつ、旅行者としての立場から生活が犯されることなく荒くルーズなものを楽しめる趣味を持てる者との、距離である。
フランス式あるいはオランダ式庭園設計の堅く厳格な幾何学性のヘゲモニーを、ルーズでもっと「自然な」パターンによって掘り崩す戦いは、一八世紀末にはだいたい勝利がついていた。プライスやナイトにとって混合に対する敵は、いまやランスロット・ブラウンだった。イングランドの大地を「改良する」という彼の流行の成功は、風景構成の反復システムを生み出していたのである。幾何学からのブラウンの離反は多様性を生み出すことはなく、個々の庭園においてだけでなく、全庭園を通して同一性をむしろ生み出していたのである。ブラウン好みの特徴の一つである木立は、プライスによって、ピクチャレスクな混合から遥かに遠いものとして描写される。ブラウン好みの「木立は全て同じ樹種、同じ樹齢のものが円を描いて植樹されており、異なる樹種や、異なる大きさや、薔薇やモチノキと一般樹木との混合や、豊穣な多様性や、空きや空洞や、若木や老木の混合や、近付いたり遠ざかるときの変化や、新しい組み合わせや、光と影といったものの対極にあるものである。木立はしかし、兵士の小部隊のように全方位からの攻撃に耐えるものだろう。どこからでも見えるし、周回できるし、空きはないし、空洞もないし、落伍もない。まったくの軍隊的な意味でそれは『全方位に向けられている(ils font face partout)』」。軍隊の参照によって、混合の敵がシステムであることが強調される。「ブラウン氏が州長官だった頃、彼の付き人がだらだらしているのを見たある悪戯好きの者が、ブラウンを誘い出した。すると彼はこう言った。『諸君、整列!』」という話を聞いたことがあるのを、プライスは覚えていた。ブラウンのランドスケープ技術は「機械的な整地操作」となっていたのである。彼の木立を周回しても「多様さはなく、ただ終わりのない変化」、アイデンティティの防御的保存しかないのである。
ある特定のランドスケープガーデニングにおいてのみ混合が問題となるわけではない。ある範疇内のいかなるシステムの境界を越えることも、ある者たちには興奮を与え、別の者たちには恐怖を与える。後者にとってもしも境界が必要でないとすれば、物事のアイデンティティが失われ始め、そのはっきりした評価も不可能となろう。一八世紀末から一九世紀初頭にかけてのピクチャレスク文献を読むと、絵画や、風景や、詩や、政治の境界がいとも容易に越えられている。これは不快なことかもしれないが、しかしこれらの議論自体はある程度は混合に依拠している。文学と庭園のあいだで行われる比較は、一方の領域の特徴を他方へと移しかえる。この結合はそもそもの始まりからはっきりしていた。アディソンは詩の種類を数え上げる。風刺詩、小抒情詩、英雄詩、ピンダロス詩。庭園術の種類も数え上げる。花壇、グロット、ワイズやルノートルらの庭園。グロットと小抒情詩の共通域は気安く気まぐれな領域であり、これはピクチャレスクにおける議論多い部分である。
ランドスケープ・デザインは絵画から得るものがあるという提案は、ピクチャレスクに関する大きな争点の一つだった。この提案は、感覚的な構成と知性的な構成の双方ともに、さまざまな領域にまたがって適用可能な原理に依拠しているという仮定に基づいている。ピクチャレスクについての議論が進んでいくにつれ、庭園、絵画、文学、そして音楽が自由に交わるのである。持続における対立するものの混合の必要性を説こうとプライスが試みたとき、彼は絵画と音楽の例を引く。「精神は・・・刺激されるとともに癒されることを要求する。多くの例においてともども、ここにおいて絵画と音楽の強力な類比があろう」。目に訴える光と影の幅広い効果は、耳に訴える調音に等しい。「これらはともに心地よい安らぎを与える。穏やかで慎ましい悦び。これはしかしもっと多様なものによって緩和されなければ、しばらくして嫌悪と退屈へと沈んでいく」。
音楽の発展をランドスケープのモデルとしてプライスが引くとき、音楽とランドスケープ・デザインは同様に描かれる。「テラスやアベニューが解体されていたのとほぼ同じ時代、音楽におけるフーガと描写音楽が時代遅れとなり始めていた・・・ヘンデルを最高とするのちの巨匠たちの何人かは、庭園の改革者たちがなしたかもしれないことをなした。庭園改革者たちはシンメトリーを捨てずに、それを野生や不規則なもの(とりわけ付随物=伴奏)と混合していた」。ヘンデルのオラトリオ『エフタ(Jepha)』の一節が論点を明確にするために引かれる。「目と同じく耳もまた、流れるような同じ調べが反復されれば飽きる。何か新しいもののしるしが欲しい。ある作曲家の旋律において甘いものともども、的を得たもの、オリジナルなものが求められる」。
厳格な境界を好むものには、本来別の範疇であるものの勝手気儘なこの混合は当惑を与えるだろう。サンファイア保険会社重役として、ジョージ・メーソンは出来事と責任の鋭い線引きへの嗜好を持っていたに相違ない。彼は『現代庭園論』(一七六八)の著者だった。庭園術について語る者たちは「形而上学的言辞を弄ぶ白日夢」に自失するほどの愚かさを見せていると、彼は危惧した。道草それ自身が誤っているわけではないが、それはルーズで含蓄あるものに限るという。「想像上の快楽と精神的情動のあいだには強い類比があるのかもしれないし、それを跡付けるのはリベラルな理解として有意義かもしれない」。「ある領域の全部分を、他の領域の対応物にシステム的に移し変え」ようとするとき、侵犯が現れるという。構成された道草は多すぎる境界をただ単純に越えるだけである。
メーソンの一七九五年に公刊された二番目の『庭園論』は大幅に拡張され、さらに三年後の補遺は一七九四年のプライスの論考に直接的に応答することで、ピクチャレスク論争を盛り上げている。プライスはメーソンの詩を勝手に使っていたが、この詩は「こうしたこと、あるいは詩一般に興味がある人には有名であり、つまり二つのコンマのあいだにある単語が主にそこからとられたことをわざわざことわる必要はない」からだという。プライスのこの称揚ぶりはしかしながら無条件なものではなかった。メーソンはホレス・ウォルポールと政治的に近かったが、ウォルポールは一八世紀を通して隠然たる支配力を保った王党派ホイッグであり、つまり保守派を意味していた。リベラル派ホイッグのプライスにとって、これは相容れないものだったのである。
プライス同様、メーソンも長男であり、土地や遺産の相続と法学院(Inner Temple)弁護士会への加入は、彼をジェントルマンの世界と混合させることとなった。彼の父はポーターの土地を伝統的なイギリスのやり方で相続権の原則に則って手に入れたが、これは社会的地位を獲得するにはどうしても必要なことだった。現金は消えてなくなってしまった。社会的境界線をますます取り除いていく近代的な社会に依拠して自らの身を立てていながら、その社会条件の中で上昇し、正統性を確立しつつあった者に違わず、メーソンもまた保守的な好みに注意深かったのである。
プライスの人生もまた地主のジェントルマンのものだった。一四歳の時、ヘリフォードシャー西部の郡部を長男として相続していた。イートン・カレッジではリベラル派ホイッグのチャールズ・ジェームズ・フォックスと親しい関係になり、フォックスの実家であるホランドハウスで一七六一年に開かれた演劇に参加し、さらに一七六七年のイタリア、スイス、フランスへの旅行でフォックスに同道している。リチャード・ペイン・ナイトもまた若くしてヘリフォードシャー西部の郡部を遺産相続し、ヨーロッパを旅してまわり、自らのダウントン城を領地に建てている。プライスともども、彼もまた議会においてフォックス支持者として活動した。一○、○○○エーカーに上る領地には祖父が始めた製鉄所があったが、天然資源の活用よりは審美的鑑賞のために、自らの望む仕掛けを作って蓄えた経済資源を使った。ヘリフォードシャーそのものが混合の一例になったと言える。小地主、小ジェントリーに分割され、農業、工業が散在する混合の例である。
ヘリフォードシャーとシュロプシャーの境界上に位置したナイトの荘園は、混合の考えられる限り明快な例である。一七七三年から七八年にかけての彼のイタリア旅行時代に着手されたこの荘園は、田舎の地所をその平面計画とアウトラインにおいて不規則なものとした最初の例だろう。それまでにも連続付加という手法で建築を不規則なものとすることは、あるにはあった。ダウントン城はゴシック建築を真似しようとして失敗した例であると、ナイトの同時代人には映っていた。この非難は主要諸室に足を踏み入れたときに多かったが、それらは少しも中世的でも田舎風でもなかったからである。古典のオーダーと幾何学的形態をした諸室は、部分に分割して理解するのが不可能な複合的全体を示していたのである。ナイトは竣工後三○年たってこのことを・・・今だったらもっといい仕事ができたのに、と描写している。「ゴシック塔と呼ばれるものや扶壁で外部を装飾し、内部はギリシア風の天井や、円柱や、エンタブレチュアで装飾するのに」と言う。彼の実験結果は「ピクチャレスクなオブジェであり、優雅で便利な住まいである」とも言う。蜂の巣型リブ付ドームを戴き、ゴシック風の窓と、煉瓦壁にヘゲ石ライニングを施した三つの交錯する部屋からなる「古代ローマ風の浴場」を建設することで、この混合を彼は拡大している。「ロマンティックな」森のなかを逍遥し、毎朝のように改良を計画し、実行していたナイトを思い浮かべる時、彼がロンドン時代にソーホー広場に面した上品な全くの都会的住居に住んでいたことを忘れるべきではない。荒さと不規則性は田舎には相応しいものだがしかし、都会生活の節度と慣習は、都市的な古典形態を要求するものだろう。
ピクチャレスクな不規則性は都市のものではないことを、プライスもまた感じていた。都市の只中では純芸術の成長に必要な富や、模倣や、競争が開花する。しかし田舎においては文化的蓄積にそれほど巻き込まれるわけではない。田舎の住宅はその環境に応答せねばならない。特定の敷地への適応は、慣習的規則の構成からの逸脱や、特異性を生む。風景と建物は「互いに馴染み、引立て合う」。文脈適正の議論は、ピクチャレスクが物の関係に関するものであることを強調する。
ピクチャレスクと政治の関係は後述するが、混合のある特定原理についてはターバビルによる時代が下っての二つの評価を引いておきたい。一つは「ホイッグ主義はその本質において典型的にイギリス的である。それはラディカリズムと保守主義という、対立するものの矛盾した組み合わせなのである」というものである。もう一つは議会におけるリベラル派ホイッグの代表であるチャールズ・ジェームズ・フォックスの宣言についてである。「絶対君主制であれ、絶対貴族制であれ、絶対民主制であれ、あらゆる絶対統治に等しくフォックスは反対していた。彼はあらゆる極端に反対したのである。混合された統治だけが彼に近いものだった」。政治的構成とピクチャレスクのこの並行性は的を得ているだけでなく、全体に対する部分の特定の配列方法への深い共感を、ともに明らかにしているだろう。
一八○○年前後にユベデール・プライスとリチャード・ペイン・ナイトがピクチャレスクに関して議論を交わしていた頃、それが誰に向かってのものだったのかを述べるのは難しい。自分の領地にピクチャレスクな構成を今まさに造ろうとしているジェントルマンに向かってなのか、それとも同じくジェントルマンや、もっと身分が下の者も含め、ウェールズや、ダービーシャーや、ヨーロッパ大陸において、既にある自分の庭園について審美的考察に耽りたい者に向かって書かれたものなのかを述べるのは、難しいのである。この混乱はピクチャレスクを巡る論争の多くに油を注ぐこととなった。ピクチャレスク庭園をこれから造ろうと手引書としてアプローチした者には、それは矛盾に満ち、漠然とした方向性しか見出せないものだった。一方で哲学的あるいは文学的論文を読んでいると思っていた者には、風景の特定の改良方法が散見される少し高級な読み物としか映らないものだった。もちろん明らかな混乱は、風景のパターンを構成の一般様態を通して政治組織と結び付けるという、漠然としていて、そして複雑な議論をなそうとしたことから自ずと起こってくるものである。
ピクチャレスクな混合は、そのまわりにある素材から引き出される。対立する審美的範疇を共にする言葉の必要性は、そもそもピクチャレスクを同定する理由の一つだろう。とりわけ一七五六年の『美と崇高(邦訳:崇高と美の観念の起源)』において二つの範疇を分けたことで、エドマンド・バークにとってこの両者の共通構成を描写する、中間項の創出は急務だった。プライスはバークの分析を概ね気に入っており、明らかにこの「美と崇高のあいだに」ピクチャレスクを挿入した。この調停的な立場により、二つの対立する範疇は「調合され、それでいて完全に分離される」。美なるものと崇高なるもののあいだの空虚は、「美の倦怠、あるいは崇高の恐怖を正す」言葉によって充填されたわけである。
風景改良の埒外に見える巨大さや広大さに、崇高は根拠を置いている。人為の届かないその遠さは、対極範疇である美へと人間の関心を持っていく。美とピクチャレスクの区別は注目すべき議論を生んだ。イギリス国内旅行の様々な解説文と、スケッチや絵画による極めて親しみ易い推奨によるウィリアム・ギルピンによるピクチャレスクの大衆化は、ナイトやプライスをもっと複雑な含みを持つものへと駆り立てた。ギルピンにとって美そのものは、感覚の何か鋭い「苛立ち」を含むものだった。プライスにとって美は、滑らかさや柔らかさそのものだった。暖かく、日差しのいい一日におけるような、滑らかで不満のないもののことだったのである。「心を動かすつもりも、ほとんど考えるつもりもない。ただ感じ、喜ぶ欲求だけがある」。美とは受動的なものである。こうした性格化はもちろん、もっぱら鋭く唐突なものとしての修正案を彼に思いつかせる。野性的でロマンティックな状況における、刺すような空気によって筋肉が引き締まった時、あるいは精神と肉体の活動がほとんど一体化し、絶壁の岩肌に手を入れる窪みを探りながら必死に登っていく時、こうした時の能動的快楽の追求は、またいかに異なったものであろうか。これが美とピクチャレスクの相違である」。ギルピンともども、ナイトもまた、プライスの美は明らかに牽強付会な結論を導くための「偽の藁人形」であると見た。
中間項としてのピクチャレスクの、境界や限界を画定することは難しい。独立項ではなく、それはただ混和物として、中和剤としてのみあろう。想定される課題と充分な相似性を持ってのみ中和剤が有効であるとすれば、美につくか崇高につくかの状況によって、ピクチャレスクも変わってくる。こうした理念に独立したアイデンティティを与えることは危険なのである。
ピクチャレスクを巡るプライスとナイトの論争は、バークの議論の異なる評価から部分的に発展してきている。プライスは概ねそれを認めていた。しかしナイトはそうではなかった。バークの範疇をプライスが認めたことについて、ジョージ・メーソンとプライスはともに言及している。ナイトが拘ったのは、彼によればバークもプライスも、美の分析において深刻な混乱をきたしているという点だった。「滑らかで波打つような表面、流れるような線や色」という彼らの定義は、「物の知性的特質」ではなく、慣習によって美と観念連合した可視的な物の美へと、取り違えるものだと指摘する。「プライスはバークを信じ、それを糾しも批判もせず、ただ美の定義を受容したゆえに、プライスはバークを修正してピクチャレスクを発明した」と、スコットランドの哲学者デュガルト・スチュワートは見ていた。プライスはバークの範疇を受容し、その再構造化によってではなく、バークによる二つの言葉のあいだに新しい言葉を付加したため、議論を扱うのにプライスは困難を見たと言う。付加によるこの変更は、構造的な刷新による明確化ではなく、さらに複雑な混合を生み出したというわけである。スチュワートは観念連合主義者のトーマス・リードとアーキボールド・アリソンの追従者にして友人であり、趣味分析のほぼ核心に心的過程の働きを置いていた。網膜上の原刺激に続く心的過程のはっきりした構造が不明なことが、物的対象の不変のあり方、あるいは感覚器官に基づいて固定した基準を、審美的問題に関してバークやプライスに措定させたと言う。刺激に連続する心的構造の欠如が、感覚経験を構成している二つの部分、つまり視覚と視覚対象の固定性によって補償されているというわけである。これらの要素は還元不能であり、多様な解釈を受け付けまい。観念連合主義者のアリソンともども、ナイトもまた心的過程に何がしかの構造を要求したが、そうでなければ異なる人々や、異なる文化によって審美嗜好が多様に異なることが説明できないからだった。ナイトにとって構造は、プライスによれば彼がそれをなしていると非難した混合の平均化のためではなく、混合の保存に向けられていた。プライスは観念連合の問題について述べ、感覚の刻み込み=印象と精神の考察とを、知覚は結合する立場を認めている。とりわけ「有益性」との絡みで観念連合が、風景への人間の反応に影響することを認めることで、人間の下等な経験側面への観念連合の適用を強調した。