Hal Foster “The Return of the Real,” The Return of the Real, The MIT Press, 1997









「あるハイモダニストたちが表象形象を超越しようとし、ある初期ポストモダニストたちが深みのないイメージに悦楽を見出そうとしたなら、ある後期ポストモダニストたちはリアルな物を所有したいと欲している。
このポストモダニズムの二極性はいまや質的変化に向かっている・・・純情動、無情動。〈私は傷つく。しかし何も感じることができない〉」(165-6頁)。


出版は1997年である。もう10年たつのかと思う。全体の構成はポップアートアンディ・ウォーホール)の再解釈に始まり、スーパーリアリズムに一瞥を与え、シンディ・シャーマンとアブジェクトアートを経て、アブジェクトアートの先行者としてのシュールレアリスムを現代に引寄せて見るところで終わる。理論的な背景にはもちろんザ・リアル(現実界)をはじめ、ラカン精神分析のRSI(現実界象徴界想像界)の見取図がある。
まずはウォーホールについてのポスト構造主義者とトーマス・クロウによる二つの先行する解釈に対し、トラウマ的リアリズムという視点が提示される。ポスト構造主義者による解釈とは、ロラン・バルトをはじめドゥルーズガタリや、とりわけジャン・ボードリヤールによるものであり、これは一世を風靡したシミュラクル論からポップアートを見るものだった。ポスト構造主義(この言葉自体はアメリカ発だが)のシミュラクル論とは、オリジナルのないコピー、シニフィエと断絶したシニフィアン、純粋記号の戯れといえる。これに対してトーマス・クロウの視点は表象的であり、古典的芸術作品への批評などではなく、ファッションや「セレブ」といった自己満足的消費文化が容赦ない事実によって暴かれることを、ウォーホールに見ている。
これら二つの視点を否定はしないが、フォスターはラカンを援用しながら「トラウマ的リアリズム(traumatic, troumatic, automaticがかけられてもいる)」という視点をまず導入するのである。
ウォーホールの「アメリカの死」とほぼ同時代に書かれたラカンの眼差しについてのセミネールに関し、「多く引用されてきたが、ほとんど理解されていない。男性の眼差しはあるだろうし、資本主義のスペクタクルは男性性に方向付けられているが、しかしそうした議論はラカンの〈この〉議論では支持されていない。ラカンにとって眼差しは、少なくとも最初からは主体に埋め込まれているのではない」「ラカンの言語にとってと同じことが、彼の眼差しについても言える。つまりそれは主体に先立ってあり、その主体は「全方位から眼差しに曝されており」、しかし「世界のスペクタクル」のなかでしみとしてある」(138頁)と述べる。
フォスターが用いるラカンの眼差しの図式はそれゆえ、複合的ないしはこれまでの眼差しの図式に転倒的なものである。ルネサンス以降の線遠近法的な眼差しの円錐に、光源(対象と同位置)の頂点と眼底(に反映した絵)の底面を持つ円錐を複合させ、なおかつ眼差しと呼ばれるものはその光源の位置を占め、表象における主体はこれとは対をなしている。その中間に「イメージスクリーン(つまり表象)」が位置する。イメージスクリーンは(想像界というより)象徴界に属するものだろう。
大雑把ではあるが、ラカンのRSI見取図をカント哲学に重ね合わせれば、「現実界」は物自体、「想像界」と「象徴界」は物の表象ということになろう。物の表象のうち象徴界はロゴスとか父の法とか言語と呼ばれるものにあり、つまりは人間の世界にのみ属し、想像界はそれ以外の表象、もう少し物自体に近い表象といえる。それゆえ想像界は動物にも属する。スーパーリアリズムに鑑みながら「動物は表層におびき寄せられ、人間はその背後にあるものに欺かれる。背後にあるものとはラカンにとって、眼差し、対象、現実界であり、それによって創造者としての画家が対話を試みるものである」と述べる。このあたりは西洋の古典的芸術論の議論も髣髴させるが、とはいえ完全なイリュージョニズムは不可能であり、スーパーリアリズムとは、現実界のいわばエンバーマー(embalmer)としてあるとされる。また、フォスターが「トラウマ」と呼ぶものはこのイメージスクリーンの孔に関しており、バルトが『明るい部屋』において述べた「プンクトゥム」とも親近性を見せている。もうひとつ、このラカン/フォスター的な眼差しのあり方は、結論近くで述べられる「アブジェクションのカルト史の主体がもしあるとすれば、それは労働者でも女でも有色人種でもなく、屍体である」の前提にもなっている。屍体はおそらくシュールレアリスムの『優雅な屍体』にもかけられていようが、こうした眼差しのあり方とアブジェクションに対する主体があるとすれば、それは屍体ということになるのだろう。主体は空虚なものであり、それゆえ傷なしには分からぬものであり、それゆえわれわれは(眼差しによって)みな傷ついており・・・そして屍体はまた、物自体に近いものでもある。
ところでアブジェククトアートとは、1993年にホイットニー美術館で開催された現代美術では有名な同名の展覧会からきたものである。理論的にはジュリア・クリステヴァの「アブジェクト(abject)」からきており、この概念はいろいろと説明されるが、ここではラカンが援用されながら、アブジェクトとは抹消主体、あるいは象徴界へと入り「私」というものになるためにそぎ落とされたものであると、とりあえず説明される。この点からさらにアブジェクトアートを、大きく二つに分類してみせる。ひとつはマイク・ケリーら主として男性アーティストによるもので、これには幼児的立場から父性的な法をからかう傾向があり(ということは象徴界に揺さぶりをかけるという傾向があり)、もうひとつはキキ・スミスら主として女性アーティストによるもので、これは父性的な法によって抑圧された母性的身体を探るという傾向がある(ということは象徴界によって抑圧された現実界を探るという傾向がある)と、整理される。前者はシュールレアリスムにおいては「中二病のヲッサン」ことアンドレ・ブルトン先行者を見出し、後者は「糞哲学者」ことジョルジュ・バタイユ先行者が見出される。ちなみに「糞」はアブジェクトアートのモチーフのひとつであり、ラカン精神分析では対象aの転移物と見做されるものであり、そしていうまでもなくフロイト派にあっては幼児の肛門愛と関連づけられるものである。糞哲学者の傍らで一瞥を与えられているのは『夜の果てへの旅』の作者でもあったルイ=フェルディナン・セリーヌである。セリーヌはしかし、アブジェクトをいささか古典的な芸術作品においてのように純粋化/昇華させたものと見られている。