伊東忠太の聖教殿


中山法華経寺の奥の方には伊東忠太設計の聖教殿がある。西洋古典建築のロトンダの上にインド建築のストゥーパを載せた構成である。大雑把に言ってこうした建築様式を、エクレクティシズム(eclecticism/折衷主義)と呼ぶ。19世紀後半における建築を語る大きな概念として、「様式」があった。様式という言葉は「スタイル」の和訳であり、styleの語源はラテン語のstylus、つまり尖筆とエクリチュールである。
19世紀後半における最も基本的な様式は、ブリティッシュ・ビクトリアンとフレンチ・ボザールだった。なぜブリティッシュ・ビクトリアンとフレンチ・ボザールだったのかと言えば、それは当時の覇権国家がイギリスとフランスだったことが大きい。この時代の建築家の多くはこうした基本となる様式をまずはしっかりと身に付け、ただし単調とならないよう、飽きが来ないよう、様々にアレンジしていくよう教育された。またそれを巧みに実践することが優秀な建築家の条件でもあった。エクレクティシズムはそうした手法の一つと言え、ムーア風とか、サラセン風といった様式を、基本様式の土台の上で折衷しつつ使用するものだった。こうした手法の背景にはもちろん、当時のイギリスやフランスによる植民地経営という文脈もあろう。
中山法華経寺聖教殿の構成やプロポーションは概ね古典的である。フリーズやメトープ、トリグリフにピラスター(角型付柱)の浮彫を付け、さらに正面は付柱から離して円柱を置く(イン・アンティス)形式もまた、古典建築の文法に則っていると言える。一方でその語彙には、先のストゥーパをはじめ、ムガール風の窓型や柱頭や装飾も用いられている。もちろん伊東の意図はイギリスの建築家たちのものとは異なっていた。
中山法華経寺聖教殿の竣工は1931年である。その様式構成の巧みさにおいてしかし、これは優れて19世紀後半的建築に見える。この点でほぼ同じ時代のアメリカにおいて、アメリカン・ボザールが最後の悪足掻き輝きを放っていたのと、だぶっても見えるだろう。

随分むかし、伊東忠太と岸田日出刀について、こんな恥ずかしい文章を書かせていただきました。

http://ci.nii.ac.jp/naid/110004224779/en/

右上のPDFボタンをクリックすると、PDFファイルが出てきます。「15年戦争」というのは家永三郎の用語ですな。こうしたものにも影響を受けてましてん。