渡部英彦氏の学習院創立百周年記念会館(1978)を拝見する。



ファサードは校門から回り込んだところにあり、椎の大木がこの南面の日射制御用に植栽され、その影をファサードに落としているのは特徴的である。川崎清栃木県立美術館でのアプローチやすずかけの扱いが思い出される。
躯体は現場打ちコンクリート、外皮はPCコンクリートで造られているが、ルイ・カーンの建築をはじめ、この構法はこの時代の建築にしばしば見られる。マリオンとルーバーを兼ねたPC部材の構成が独特の表情を与える。



入口を入っての受付。堅木によるカウンター甲板の断面が特徴的。入口から90度まわって見えるホワイエはゆるく2段持ち上げられ、またプロセニアウムのように切り取られることで劇場への期待感を持たされる。ホワイエとの相違を強調するため、天井高は低く抑えられている。レッドカーペット。天井はそれに対応するようにうすい赤紫。



ホワイエ。鈍角、ニッチ、スリット、ギャラリー、バルコニーによる構成。鈍角はまた階上の小ホールの輪郭をそのままモチーフとして用いたもので、この部分に人溜りが出来易くするもの。



階段室ピクチュアウィンドウ。



2階ラウンジ。いわずと知れたイームズ・シェルチェア。



2階ギャラリー形式のホワイエ。鈍角フォールディング。



ホワイエ見下ろし。WCH(double ceiling height)。



階段室。平面形は鋭角を用いている。アルバーロ・シザのポルト大学建築学部を思い出す。手摺笠木は視覚的な締めだけでなく堅木SOP塗装とすることで、同じ白でもコンクリート部分と微妙に質感が異なるものとなっている。そこからデタッチして同じく堅木UC塗装の45φハンドレールが木の質感を与える。



ファサードを南面させそこにスリットをとることで、日中は自然光が日時計のように動いていく。

小林美香『写真を〈読む〉視点』、青弓社、2005


「あたし関西系なんです」と言って、いきなり大阪弁で語り出す写真研究者の小林美香氏の著作。劈頭では写真史の論じ方がひととおり述べられ、また技術史でも表現史でも用法史でも写真家列伝でもなく、写真の見方見せ方の条件を「読む」視点を示すこと、あるいはそのような写真史を描くことが本書の主題であると、まず述べられる。このあたりはもちろん建築史にも、美術史にも通底する。
その写真を「読む」フレームとして提出されるのは、子供、性、広告/ジェンダー、戦争、紙面、美術館、現代美術・・とこう書くと最近の定番メニューが揃っているようにも、見えなくもないのかもしれない。個人的な印象のいくつか。
子供・・というと、フィリップ・アリエスの古典的著作『子供の誕生』があり、また古典的マルクス主義の視点からであれば、19世紀におけるブルジョワ家族の形成と家族写真や子供の写真について、正面から論じたかもしれない。ここでは19世紀における家族写真(やおそらく家族の変容)とダゲレオタイプやカルト・ド・ヴィジットの関係、および20世紀プロパガンダにおける子供の扱われ方とフォトジャーナリズムやドキュメンタリーの関係が、述べられていく。
さて、広告を「読む」ことはロラン・バルトの1957年の『神話作用』以降、1990年代のジャン・ボードリヤールの一連の著作を経て今日にいたるまで繰り返されてきたし、また避けて通れないものであるかもしれない。近年ではジェンダー論がこれに重ねられる。商品や消費や広告はジェンダーという観点から見れば、もちろん中立ではない。アメリカの若い建築史研究者の書いたペーパーに、19世紀ビクトリア時代における住宅の変容と生産(労働)と消費の関係をジェンダーの観点から論じたものが何年か前にあったが、こうした視点は住宅史や都市史においてもまだ論が尽くされていないと思われる。ところで本書107頁では(広告写真の)モデルの身体の断片化や「もの」化が論じられているが、古典的マルクス主義であれば、これらは疎外化(alienation)、物象化(reification)、商品化(commodification)といった鍵概念の議論に相応するだろう。
戦争とプロパガンダの問題というと、映画についてのポール・ヴィリリオの一連の著作が思い出される。ここでは写真に焦点をあて、ロバート・キャパの『LIFE』での写真に始まり、ハーバート・バイヤー+エドワード・スタイケンによるMOMAの展覧会『勝利への道』までをあげながら、戦場ジャーナリズムと小型カメラの発明の関係からもっぱら述べられている。
紙面・・では、パソコンのモニター上の「画像」と写真集(ポートフォリオ)という紙媒体上の写真の相違から論が起こされる。写真集では余白やサイズ、紙面構成、シークエンス、テクストが介在する。これらについて、ハリー・キャラハン、ラルフ・ギブソンウィリアム・クラインユージン・スミスという4人の写真家の作品集において、それぞれ分析されていく。「紙面での写真の構成方法の違いは、見開きや余白という印刷物に備わる要素の扱い方に結び付くものであると同時に、読者が本を手に取ってページを繰りながら写真を見たり文章を読みとったりするという身体的な行為にも結び付いている」(163-164頁)といったことは、今後ますます増えていく「画像」との基本的な相違のひとつであろう。
本書の後ろ近くで述べられるヴィンテージ写真をはじめとした美術館写真の議論は、他の分野でも述べられてきた美術館やギャラリーの議論とも、もちろん通底している。
ソシュールの謂いを転倒させて「言語学記号学の基礎である」とかつて述べたのはロラン・バルトで、視覚と(言語の介在する)視覚性を分けたのはラカン派であったように思う。ついでに述べると、写真についてはベンヤミンのような先行者もいる。今日の視覚をめぐる議論の一端はこうした議論の延長上にあると思われる。つまり本書のタイトルにもあるように、写真の分析は「見る」ことではなく「読む」ことにあろう。冒頭でも示唆させていただいたが、これらフレームは建築史(や美術史)とももちろん共通している。


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写真を“読む”視点 (写真叢書)

写真を“読む”視点 (写真叢書)



どちらも道路法でいう「道路」。道路の維持管理にはまぁコストが伴なうということか。
上の写真でブルーシートが掛けられているのは、崖崩れによるガードレールの滑落部分への対応。道路の右側は土砂崩れによる路肩の埋没。
下の写真はガードレールの同じく崖崩れによる滑落。


芝豆腐屋うかいでの村野藤吾研究会クロージングパーティにお誘いいただく。同会の会長で私と同郷の建築家・菊竹清訓氏と名刺交換させていただく。そもそも村野藤吾自身、同郷(だいたい)で、地元には生前の村野を知る人がまだ少なくありません。福岡県出身の建築家といえば、松田軍平、岸田日出刀、村野藤吾菊竹清訓松畑強、これはなんとも大物揃いです。
他にもいろいろな先生方に知己を得たり、旧交を温めさせていただいた。
ところでこの芝豆腐屋うかいというのは凄いですね。東京の中心に2000坪の敷地、そのうち1500坪が庭園であるとか。料理は豆腐懐石料理でした。


広尾交差点近くにある建築家・渡部英彦氏の事務所にお邪魔する。ランチタイムに始まり夜の9時に終わるまで、ノンストップの濃密なカンバセーション。プライベートな会話を電網与太話にするのはいかがかという考えもあるでしょうが、差障りないと思われる範囲でいくつか。
まず氏の生立ちから。渡部氏の祖父は日本画家、父は建築家であったという。中学高校時代の英彦氏の鉛筆画、水彩画、油彩画も見せていただいた。うまい、お上手です。筆の速度や運びに日本画的な面もあるように見え、また大学以降のスケッチにはおなじく筆勢がある。話はそれるが、概して最近の若い建築家さん達には、建築設計の基本の一つであるデッサンやスケッチを疎かにした傾向が見られる気がしなくも、まぁない。
父は文字違いの渡辺、渡辺仁事務所に勤務されていたそうで、そこで皇居前の第一生命館、銀座の服部時計店(和光)などを担当されたという。第一生命館の担当者は松本与作とされることが多いが、それは違うのではとのこと。話はふたたびそれるが、渡辺仁事務所といえば歴史的には様式建築時代の終焉あたりに位置づけられる。様式が多少崩れている場合でも同事務所の作品がカッチリして見えるのは、基本に古典主義があってプロポーションやディテールがしっかりしているからではなかろうか。
さて、英彦氏の作品には東京女子医大日本心臓血圧研究所研究棟(1960年代)、学習院創立百周年記念館(1970年代)などがある。後者はアプローチや外構、ホワイエなどの計画がなんとも奥ゆかしく、またアルヴァ・アアルトの作品を彷彿させるところがあり、
「上品というか、品がありますね」
「増田(友也)先生にも同じことを言われた」。
反対運動に遭ったり、30年とたたないうちに取壊される建築もあるなか、30年大事に使われて続け、今なお使われているというのは、建築家冥利につきるのではなかろうか。銀座の和光にも、同じ性質のものがあるかもしれない。
ところで氏の高校時代の友人の一人が石原慎太郎氏(現・東京都知事)で、大学時代のクラスメートの一人が黒川紀章氏(建築家、故人)であった、と書くと、黒川氏を石原氏につないだのは・・・などと邪推しそうになる。
「私にとって黒川君はいい友人だった」
と言って見せていただいたのは、2007年2月14日に黒川氏から手渡された腕時計の贈物であった。人生最後のバレンタインデーに男友達に自分のデザインした腕時計を贈るところが、なんとも黒川さんらしいというか。
「黒川君の代表作は何だったと思う?僕は中銀カプセルタワーが黒川君らしいって本人に言った。本人はそれを否定して、クアラルンプール国際空港だって」。
窓の外が暗くなる頃には話は1960年代にまで遡り、午前2時の増田友也研究室の逸話や、同じく午前2時の丹下健三研究室の逸話までも、会話にのぼる。
丹下健三氏の代々木オリンピック体育館。シビルエンジニアリングからエアロダイナミクスまでの工学を用い、また手の込んだ操作的デザイン、さらに歴史的・文化的言説によるイコノロジーの構築、そして舞台となるのが東京オリンピック。こんな建築は百年に一度くらいしか登場しないのだろうな、と思う。石原慎太郎氏が「東京オリンピックの感動を・・・」と言っていたのも、まぁ分からなくもない。
渡部氏自身や黒川氏の仕事術やビジネスの方法についても、いくつか教えていただいた。


「増田先生が言っていたことだが、人生には自分にも信じられないような機会に遭遇することがある。それまでの日々の努力を怠らなかったかどうかが、勝負。君と僕の年齢は30くらい違うが、30年なんてあっという間だ。じゃ、お疲れさま」。
「お疲れさまです」。