「西田哲学演習(昭和36-37年)」 西谷啓治著作集第14巻 創文社 1990


よくわかる西田哲学といった感じだろうか。「働くものから見るものへ」、「左右田博士に答ふ」、「場所」の三章からなる構成である。西田幾多郎の初期の著作『善の研究』でも感じられることだが、西田の基本にはカントがある。西田用語の「直観」、「直覚」はカントではそれぞれ“intellektuelle Anschauung,” “sinnliche Anschauung”に相当する、という。かつてよく流通した「自己否定」という言葉も西田用語からきているようだが、西田にあってはこれは「自己犠牲」とか「ノブレス・オブリージュ」といった意味で使われているのではもちろんない。
第二節「左右田博士に答ふ」は、新カント派のリッケルトを元に西田に批判的問いを投げた左右田善一に対して基本的には書かれている。ここから逆に新カント派の、カントにおける物自体をも解消し「論理主義へといたる」立場とは異なるあり方で、「カントを(批判的に)徹底化」するという西田の初発のあり方が明快に示される。
西谷が黒板に書いたとされる図式では、カントの物自体の半円の外側に感性と現象界が置かれ、また物自体の反対側に思惟が措定され、その中心が円で囲われて「カント的統一(思惟の側からの統一)」とされている。物自体、感性、思惟はラカンならさしずめRSIとして図式化したかもしれないし、円で囲った「統一」は現象学ならさしずめノエシスノエマ構造と言ったかもしれないものだろう。西田/西谷はさらにこの中心から下方に向かって破線を描き、その先に「無(nec creans nec creata)」を置く。西田の統一はまた「意志」とも呼ばれるが、その「「絶対自由の意志」は、それが意志でありながら、徹底的な自己否定を自己自身のうちに含んでいる」ものであり、それゆえ「創造もせず、創造もされないといふ面を、意志は含む。そこに無があらはれる」(160頁)ものであり、「のちに「無の場所」といはれるものへの方向」(162頁)と言われ、また「西田先生のカント批判の核心は、知的自覚より意志的自覚への深化徹底にある」とされる。
その「意志」について。「すなわち意志は一方においてcreativeであると同時に、反面またregressiveであり、つねに自己の元へ還る面をもつ。egresus・・前進の方向は全く創造的である。しかしそれは同時に、創造もしないといふ方向を内に含んでいなければならない。この両方を含んではじめて、真に意志が考へ得られるのである。egresus 即 regresus」「鏡と鏡を向ひ合わせてみると、bの鏡の中にaの鏡が映り、それがまたaに映る」「真のIch bin Ichは、鏡に鏡が映るところ・・無の場所に・・成り立つ」(176-179頁)という謂いにおいて鏡が登場するのは、あとで出てくるライプニッツの伏線として示唆的である。ところでずいぶんむかしに読んだのでうろ覚えだが、カントは『実践理性批判』において「意志」の問題を悟性と理性のずれから論じていたのではなかったろうか。
さらにその「場所」について。「しかしカントの方向をどこまでも押し進めていつても、どうしても主客対立の前提が残る。そこで西田先生は、カントとは違つた、もつと新しい立場を出してくる」(214頁)として、アリストテレスのヒポケーメノンを基としたとする(224頁)「主観あるいは意識として、述語となつて主語とならないならないもの、すなわち「場所」を考へた」「意志は作用のいきつく最後の立場であ」るが、「場所は、「意志的自覚」をも超えたところである。さうして、この「場所」に於いてあるといふことが、「知る」といふことの根本義とな」(215頁)るとされる。
また「与へられた感覚によつて規定された自然界が、実在の唯一の在り方ではない。カント的な自然界は、可能的な多くの実在界のうちの一つにすぎない。自然以外に、もつと可能な世界が考へられ得る。それが「反省的範疇の対象界」である。真の対象界は、そこではじめて成り立つ。これはライプニッツの考へ方に近い」(234頁)と述べられるが、この「反省的対象界」は可能世界論を髣髴させるし、場所論で述べる「述語論的論理」はのちのドゥルーズライプニッツ論を髣髴させもする。
「場所」についてはさらに「空間と物体のやうに包むものと包まれるものとが二つであるのではなく、絶対に一なるとき、そこに包むものと包まれるものとの「無限の系列といふものが成立する」。空間と物体との関係においても、空間とは、そこに物体のある場である。その物体が内面から透明になつて空間と一つになる。於いてあるものと於いてある場とが一つになる。それが一般者の自己限定としての空間的Gestaltに外ならない」(293頁)としていわれる「空間」と「場所」の概念は、なんとも近代建築の議論でいう「空間」とりわけ「ヴォリューム」概念と相似的ではなかろうか(「ヴォリューム」概念についてはたとえば向井正也『モダニズムの建築』ナカニシヤ出版、1983などを参照)。
引用を続けると、西谷が引く西田の一文「単に物が空間に於いてあるといふ如き場合に於いては、空間と物とは互いに外的であって、空間に主観といふ如き意味はないであらう。併し物の本体性がその於いてある場所の関係に移つて行く時、物は力に還元せられる。併し力には力の本体といふものが考えられねばならぬ、関係には関係の項といふものが考へられねばならぬ。此の本体といふものを何処に求むるべきであるか。之を元の物に求めるならば、何処までも力に還元することのできない物といふものが残ることになる。之を空間其者に帰するならば、空間的関係の項として点といふ如きものを考へる外はない。併し関係の本体となるものが単に点といふ如きものならば、力といふ如きものはなくならねばならぬ。真に力の関係を内に含むものは力の場といふ如きものでなければならぬ」(294-295頁)などは、これはまたなんとも量子論的ではなかろうか。
建築論の文脈では「空間」という概念は20世紀的なものとしてある。上記の部分のみを読むとジークフリート・ギーディオンの『空間・時間・建築』までもが彷彿されるかもしれない。あえて言わせていただければ建築で言えば、古典建築を批判的に徹底するとしながら、肝心なところでバロック的な要素が登場し、最終的には20世紀的な概念に収斂していくようなもののようにも、西田の論は読めなくもない。西田哲学について、西洋哲学の主客対立を禅における純粋経験によって超越した云々と通俗的には言われている側面もあるのかもしれないが、むしろ20世紀的な概念によって宗教哲学を賦活したと見ることも、できるのではないだろうか。
もう一点。西田/西谷が「無」を述べるのは、ハイデッガーの「有/存在」を意識してのことなのだろうか。