「自然について」 西谷啓治著作集第14巻 創文社 1990  


近代思想ではたとえばジャン・ジャック・ルソーの「自然」概念とエドマンド・バークの「自然」概念は対照的に使われているのではないかとさえ思えるのだが、いくつか抜書き。


「その反動としてルソーが出てきています。ルソーの場合も、自然といふことが非常に大きな役割を果たしています。例へば『社会契約論』のはじめの所では、人間の原始状態といふものを、つまりetat naturelといふ自然的な状態を考へ、それをシヴィライズされた状態、つまり文明開化された状態と対決させながら考へている」「さふかと思ふと今度は、例へば『エミール』などでは、よく言はれるやうに「自然に還れ」と言ふ」「それから同時にそこでconscienceつまり人間の良心といふことも言はれていますが、これもやはり根本には自然、人間のnatureに結びついている」(107-108頁)
列子といふ老荘の系統の思想家ですが、その人のものとされる『列子』といふ非常に古い本があります。その『列子』のなかに自然と書いて、「自ずから然るのみ」、たださういふことだ、といふ意味で使っています」「(この)自という言葉は、日本語に訳すと、・・より、・・からといふ意味で使はれる場合が非常に多いことです。これは漢文を少し読んでいくと、しよつちゅう出会う言葉です」「・・からといふときに、自といふのは、いはば始めとか源、つまりドイツ語でいふとAnfangとか、場合によってはUrsprungとさへ言へるやうな、さういう意味でも使われています」(113-114頁)
「中国ではご存知のやうにいつでも人間と天と地といふ三つが一つにされますが、そこへ道といふことが入ってくる。そして最後に自然が入ってきます。最後に、つまりすべての法の法、法のいちばん究極、すべてがそこに法るそのいちばん根本が、自然といふことであります」(115頁)
「東洋の自然(じねん)といふ言葉にはもう一つの重要な要素があります。それは日本の古い書物なんかを読むとよく現はれていて、国文学者が指摘していることですが、「自然(じねん)に」といふ言葉が非常に歴史的な概念であり、歴史のなかの概念になっているといふことです。この場合はもちろん人間の世界のことですが、その歴史のなかに現はれてくる、いはば歴史的な偶発性、偶然性をもつた出来事が、そこでは自然の出来事とか、自然のことといふ風に見られる」「この場合の自然(じねん)といふのは」「移り変わるといふ面と、変わらないといふ面とが両方一つに考へられていることがあると思います」(118-119頁)
ラテン語naturaといふ言葉のもとは、動詞としてはnasco、古い形ではgnascoです。gnascoはギリシア語のgignomaiと共通の語源からきている。この言葉の基礎的な意味は、新しく現にここに何かが産み出されてくる、何かを産み出し、生ぜしめるといふこと、日本語で言ふと生じるといふこよでせう。そこからまた、いろんな意味が出てくる。さつき言った「・・から」、あるもの「から」出てくる、といふ意味も含まれている。今のnascoは、産むとか生じるといふ動詞ですが、そこから何かが出てくるといふ意味での、始めがあるといふ名詞的な意味も含んでいる」(121頁)
「この自にあたる一番重要な言葉は、ラテン語ではipseです。そしてこのipseもまた、日本語で先に言つた自の二つの方向で、つまりego ipse といふ場合のわれ自らといふやうな意味と、それからある事柄が自らといふ場合のipseといふ意味で使われる。もう一つの非常に大事なことは、ipseといふ言葉には」「そのもの自身といふことが非常にはつきり出ているいるといふことです」「あるものについてsomething in itselfとかいふときのその-selfです。場合によつては、カントのDing an sichまで結びつくと思ひますが」(122頁)