世阿弥編 『花伝書風姿花伝)』川瀬一馬校注、現代語訳、講談社文庫、1972


日本の芸人の芸道を説いた古典のひとつで、いまごろ読んでいるのかという必読書の類である。芸人の心得部分を別として、個人的に興味深い点をいくつか。
「第六、花修に言う」では有名な「幽玄」という美学的範疇が、強い、弱い、荒いといった範疇とともに述べられている。

「能に、強き・幽玄、弱き・荒さを知ること、おほかたは見えたることなれば、たやすき様なれども、真実、これを知らぬによりて、弱き荒きして多し。まづ、一切のものまねに、いつはるところにて、荒くも弱くもなると知るべし。このさかひ、よきほどの工夫にてはまぎるべし。よくよく心底を分けて、案じをさむべきことなり」74頁
(能において、強い・幽玄、弱い・荒いの区別をわきまえることが大切である。これは大体舞台でよく見ていることだから、その識別はやさしいようなものだが、実際には、これがよく判らないために、弱く・荒い役者が多い。まずどうして弱く・荒いのかといえば、それはすべての物まねを本当に似せていないところからくるのだと思うがよい)151頁。
「この分目をよくよく見るに、幽玄と強気と、別にあるものと心得るゆえに、迷ふなり。この二つは、そのものの体にあり。たとへば、人においては、女御・更衣、または、優女・好色・美男、草木には花のたぐひ。か様の数々は、その形、幽玄のものなり。また、あるは、武士・荒夷、あるいは、鬼・神、草木にも、松・杉の数々のたぐひは、強きものと申すべきか。
か様の万物の品々を、よくし似せたらんは、幽玄のものまねは幽玄になり、強きはおのずから強かるべし。この分目をばあてがはずして、ただ、幽玄にせんとばかりに心得て、ものまねおろそかなれば、それに似ず。似ぬをば知らで、幽玄にするぞと思ふ心、これ弱きなり。されば、優女・美男などのものまねを、よく似せたらば、おのづから幽玄なるべし。ただ似せんとばかり思ふべし。また、強きことをもよく似せたらんは、おのづから強かるべし」74-75頁
(幽玄とか強いとかいうものが、その物から離れて別に存在するものだと思うがために、迷うのである。この二つのものは、まねるものの本体にそなわっているものだ。たとえば、人間では、女御・更衣のような最高貴族の女性、または美しい男女、草木では花の類、かようの種類のものは、その形が幽玄のものである。また、武士・荒くれ男、あるいは鬼・神、草木でも松・杉というような種類のものは、強いものと言おうか。
このような色々の種類のものを、よく似せておおせれば、幽玄の物まねは幽玄になり、強いものは自然に強くなるものだ。この見当を考慮しないで、ただ何でも幽玄にしようとばかり考えて、物まねをいい加減にするならば、まねるものには似ない。なぜ似ないかということを知らずに、ただ幽玄にしなければと思う考え方であるのが、弱くなってしまうのだ。美男・美女などの物まねを、そっくりよく似せれば、自然に幽玄になるのだから、要するによく似せようということだけを考えればよいのである。また強いことの場合も、それをよく似せるならば、自然に強くなるのである)152-153頁。


再現芸術としての能の基本・美学範疇は、幽玄/強い、ということになるのだろうか。また「七、別紙口伝」では奥義としての「花」について


「花と、おもしろきと、めずらしきと、これ三つは同じ心なり。いずれの花か散らで残るべき。散るゆえによりて、咲くころあればめずらしきなり。能も住するところなきを、まず花と知るべし。住せずして、余の風体に移れば、めづらしきなり」82頁。
(花と、おもしろいことと、珍しいということと、この三つは同じ意味あいのものだ。どこにいつまでも散らずに咲き残る花があろうか。散るからこそまた咲く時節があって珍しいのだ。能も停滞しないのが花であると心得るがよい。停滞しないで、ほかの風体に変わって行くので珍しいのである)157頁

と説明される。有名な「秘すれば花なり」という言葉は、このおもしろき、めずらしきを演出するための技術ということになる。ただし花を一般化すると

「されば、この道を究め終わりて見れば、花とて別にはなきものなり、奥義を究めて万に珍しきことわりを、われと知るならでは、花はあるべからず」96頁。
(こういう次第で、この道を究め終わって、さとってみれば、「花」といっても、特別に存在するものではない。奥義を究めて、万事に珍しいということが大事だという原理を、自分からさとる以外には、花を知る方法はない)167頁
「ただ時にとりて用足るものをば善きものとし、用足らぬを悪しきものとす。この風体の品々も、当代の衆人・所々にわたりて、その時のあまねき好みによりてとりいだす風体、これ用足るための花なるべし。ここにこの風体をもてあそめば、かしこにまた余の風体を賞翫す。これ人々心心の花なり。いづれをまこととせんや。ただ、時に用ゆるをもて花としるべし」96-97頁
(この申楽の風体の色々も、現代の大衆・各地において、その時の一般の好みによって取り出して演ずる風体は、これは、その時に効果を挙げるから花になるのだ。こっちでこの風体を喜ぶかと思えば、あっちではまた他の風体を楽しむ。これは各人の気持ちで「花」が違っているということだ。どれとどれが本当の花なのか。どれもみな本当のなのだ。ただその時々に効果があるのが「花」だと知るがよい)167頁