日本の郊外に大規模店舗が建ち始めたのはこの約10年あまりですが、その10年でも大規模店舗は様態を変えてきているように思えます。当初はビッグボックスストアに毛が生えた程度でしたが、最近のものは都市的要素を取り入れ、よく計算されて計画されているように見えるのです。こうした店舗を造るのに指針あるいはセオリーのようなものがあるのかもしれません。
人間はこうした施設に入るとまず左に曲がり、その後時計回りに周回していくことが多いらしいです(心臓が左にあり、利き腕が右にあることが多いからか?)。商業施設としてはこの習性や特性を生かし、回遊性を持たせてやるといい。最近の店舗ではほぼ中央に三層吹抜とそれに取り付くような幅広の街路のようなものが計画され、来往者は散漫な気分でそこをゆっくりと行き来しています。この街路のようなものはまっすぐに計画されることはなく、蛇行しており、見通しがききながらもすべては見えない状態であるため、すぐに飽きることはなく歩行者は回遊していきます。原理としては19世紀に誕生したパサージュやデパートと同じものがあると思います。
遊歩者の気分を散漫とする別の要素はショップの配置にもあります。あえて断片的にまとまりのないように配置することで、どこかに意識が集中しないようにするとともに、またたんにまとまりのない計画としているのではなく、ある決まりごともあるように見えます。たとえばスーパーマーケットでは入口付近に花屋さんを配して鮮度を印象付け、デパートでは入口付近にコズメティクス売場を配して非日常性を印象付けるという操作がなされてきたとすれば、こうした店舗では生鮮食料品売場と女性下着売場を離して配置するという決まりごとがあるようです。女性客からするとこの二つは離して欲しいという心理があるのかもしれませんし、とともに女性客はこの二つの売場に足を運ぶ可能性が高いので、離して配置すればその道すがらにあるショップの前をひととおり通り過ぎることにもなるでしょう。
全体的なスケール感もこれまでの日本の施設とは異なってゆったりした感じです。通路はだいたい幅が4メートルくらいあり、ベンチを置いても往復往の3路が余裕でとれそうです。さらに床にはタイルカーペットが張られ、柱は角がとられ、結果として子供たちが走り回っても大きな危険はない。子供が喜べば女たちが集まり、女たちが集まれば男たちが集まる、つまり家族連れとなるという構造になっているのかどうかは分かりませんが、古典落語の『豆腐』のなかでの「商売の基本は女子供にある」という言葉が思い出されます。まぁ子供は何も生産せずに消費するだけですから、究極の消費者ともいえるのかもしれません。さらに言えばいたるところに防犯カメラが設置され、セキュリティ上の安心感もあるでしょう。
面白いことにこうした大規模店舗には地下か屋上か周囲に広大な駐車場があり、ここにやってくる人たちの多くはわざわざ車で乗り付け「遊歩」という行動をとっているのですね。今日ではショッピングや決済もウェブ上で可能であるにもかかわらず、遊歩という都市的消費行動をとるために車でのりつけているとも言えるわけです。
大規模店舗はこれまで郊外を中心に展開してきましたが、最近は空洞化した中心部などにも進出してきています。イタリアのどこかの街路や都市をそっくり模倣して造ったというビーナスフォートという施設がお台場にできたのが2001年でしたが、もしかしたらそのあたりが嚆矢だったのかもしれません。
さて都市中心部のいわゆるシャッター通り商店街とこうした大規模店舗がほぼ隣接している光景をさいきん拝見しました。二つは1キロと離れていません。同じ曜日同じ時間帯であるにもかかわらず、一方は文字通りシャッターが下りたままのお店が多く、また閑散としており、他方は少子高齢化した日本にまだこれほど子供がいたのかと思うほど子供が走り回り、賑わっています。この相違はいったい何なのか。
どちらがよくどちらがよくないとか、どちらが正しくどちらが間違っているとここで結論するつもりはありません。一方はかつて賑わいがあったところで、いまやゴーストタウンと化しつつあるかに見えるところです。もうじゅうぶん儲けたのだからあとは野となれ山となれと、当事者の方々は考えられているのかどうか。他方は都市のような商業施設です。「都市のような」と述べるのは、その内部の造作が都市的であっても、一社によって所有され、開店時間と閉店時間が決められているそれは大きな商業施設であるからです。
かつてまちと思っていたところがいつのまにか消えてなくなったということは、いままちのように見えるところもいずれ消えていくということでしょうか。