黒川紀章「ホモ・モーベンス」『黒川紀章著作集1』勉誠出版、2006









過去の人が若いころに書いた文章を読むのは興味深いものです。私自身がちょうど30歳をまわったころ、その半世紀以上前に20歳そこそこの人が書いた文章(北一輝の初期論文)を読んだ時などは、のけぞったものです。
「ホモ・モーベンス」の初出は1969年ですから、40年近く前、黒川紀章が35歳前後で書いた書なのですね。40年近く経て大きく変わったことと、まるで変わっていないことにまず目がいきます。
本書に登場するメタポリスとかメガロポリスのあり方はその後必ずしも線形的には発達しなかったものです。たとえばアメリカでは1970-80年代に北部フロストベルト(スノーベルト)の重工業地帯から南部サンベルトへと産業の中心が移っていきました。日本では1970年代の大平政権下での「田園都市国家構想」、80年代の中曽根政権下での東京一極集中、90年代の大店法撤廃による郊外化、2000年代の中心市街地活性化/コンパクトシティ論と、無節操なほどの跛行性を見せています。
他方、本書でいわれる多種多様性の尊重、ピラミッド型システムからネットワーク型システムへ、廃県置州(道州制)、ハイブリッド性、サイボーグ論などは、のちの(あるいは今日の)ポストモダンと呼ばれる状況をおおきく先取りし、またそこから何も変わっていない(いまだに新しい)ものに見えます。
黒川紀章の都市論へのジェーン・ジェコブスの影響は本人の論及からもはっきりしていますが、明言はしていないものの何がしかの影響、あるいは反発があるのではないかと思えるものとして、スミッソンズの都市論があります。
黒川の「道の建築」は”eyes on the streets”コンセプトをはじめ、ジェコブスの概念の影響をいえそうです。もっともこの時代、「道」一般は大きな主題だったものです。その大きな理由のひとつは20世紀における自動車の普及でしょう。スミッソンズ(やルイ・カーン)の都市論における自動車はどちらかというと否定的なものです。できれば排除するか、分離するか、そうした対象としてあります。スミッソンズ初期のゴールデンレーン計画は、地上を自動車スペースとし、歩行者は基本的に空中歩廊を歩くという歩車分離がいわれています。ゴールデンレーン計画の特徴(面白さ)はこの歩車分離だけでなく、都市の成長にあわせて建築自体が増殖していくという、建築/都市のヒエラルキーとはまったく異なった建築=都市という考えにもあり、ヨナ・フリードマンやGEAMやメタボリズムなど、当時の世界的な動向との共鳴もそこには窺えます。それはともかく、ヨーロピアンとしてのスミッソンズにとってまず「街路(streets)」というものが都市のイメージとしてあり、「道路(roads)」は外挿的なものでしかない。街路は建築に属する部分としてあるが、しかし道路はそうではない。アメリカ旅行ののち、この考えは変更されたとも言われます。アメリカの自動車理想郷的状況もあったでしょうが、ルイ・カーンフィラデルフィア計画の影響もあったでしょう。古典的な城郭都市のような囲われた“precinct”を形成し、車の海のなかの港のようなものとして構想された都市ビジョンです。スミッソンズののちのロビンフッドガーデンズでは、バックヤードのトラック用道路が地下に沈み込んでいるところはレベル差による歩車分離ですが、2棟の折れ曲がったスラブ状の建物によって内側に“precinct”を形成しているところなどは、それまでにはなかった(あるいはカーンの影響)ものだろうと思われるわけです。ちなみに空中歩廊という建築語彙はエドガー・シャンブルという建築家によって開発され、そのごル・コルビュジエの『300万人の現代都市』において多用されて一般的となり、1960-70年代の建築ではじつに多用されています。黒川紀章の農村都市計画(1960)をはじめとした計画にも、重要な要素としてもちろん登場するものです。
かつてチーム10の会議に出席して天地がひっくり返るほどの衝撃を受けたと黒川紀章は述懐しているゆえ、スミッソンズにもなにがしかの影響を受けているのではないか。
もっともいずれにせよしかし、黒川の自動車や道路に対する考えはスミッソンズとは異なり、かならずしも否定的なものではありません。「ル・コルビュジエはブガッティを愛車にしていた」と称し、みずからもアストンマーチンをぶっ飛ばしていた黒川紀章にとって、車は排除・分離すべきものではなく、「共生」すべきものであり、また生活空間の延長としての室内の一部であり、カプセル建築と相同的、あるいはサイボーグ的なものとしてあります。
ところで産業革命(工業革命/industrial revolution)というと製造業による変革のようにも見えますが、スミスの『国富論』などをむかし読んだ印象では、必ずしもそうではなかったのではないかとも思えます。蒸気機関も鋳鉄も原理的にはすでに知られていたのかもしれませんが、一般的に用いられて「産業革命」と呼ばれるものが登場するのは、流通革命としてあった気がするわけです。18世紀において都市は農村からの食料その他の調達を必要とし、いっぽう農村は都市の製造業を必要としていた。互いが必要としているもののあいだに高速大量輸送装置を設け、それ自身が産業化し、なおかつ他産業を刺激していく。重商主義は金属(金や銀)に価値を見出し、重農主義は農業生産に価値を見出し、後者が産業革命を準備していくわけですが、都市部の製造業、農村部の農業、漁村部の漁業と、まったく価値観の異なるものを再編するにあたってスミスが見出したものが、「労働」です。国民経済学は富の源泉に、「労働」なるものを措定する。製造業者や農民や漁民その他の行為に共約的なものとしての、「労働」という概念です。さらにここに「道」という物理的なものともども、不換紙幣の発行がくわわる。スミスは『国富論』において不換紙幣とは約束手形のひとつであり、これによってそれまで地上の道を歩んでいたものが、なにか危なげな空中の道を歩むようになったように見えると書いていた。歴史上はじめてのバブル経済である「海南島泡沫事件」は、イングランド銀行による不換紙幣発行直後に起きています。なおかつ不換紙幣発行の背後には印刷技術の発達があったでしょう。資本主義を準備した最大の要素は、工業一般もさることながら、印刷技術の発達だったのかもしれません。
19世紀後半は第二次産業革命期、別名鉄道革命期とも呼ばれますが、おもしろいのは当時の議論です。日本において鉄道を敷設するにあたって、かなりな議論が行われているのですね。「そんなものを作って何になる」「何も生産しないじゃないか」「軍艦を造る方が急務である」。当時の軍艦はいまはほとんど残っていませんが、鉄道はいまも残り、機能しています。鉄道敷設派は先見の明があったということでしょう。
この春の東京都知事選挙での黒川候補のマニフェストに、「東京-大阪-上海-北京をむすぶ航空路線を設ける」を見出し、のけぞったのは、私だけでしょうか。