MANFREDO TAFURI    VENICE AND THE RENAISSANCE    trans.by Jessica Levine、The MIT Press 1995


マンフレッド・タフーリ没後の出版である。序文はほとんどマニフェストである。ミシュレやブルクハルトによって作られた「宇宙」を放棄し、「特定の」歴史へ向かう。それゆえ「ルネサンス」という言葉は書名以外に登場しないという(全く登場しないわけではない)。また遠近法から土地台帳にいたる表象システム、つまり世界像の時代の到来によって対象を操作可能としたというテクノロジー批判に向かうハイデッガーや、実体論から関係論へといった傾向性をもつカッシーラーも批判される。広い意味での歴史主義批判というべきだろうか。
替わって述べられるのは、ベネチア学派がしばしば使う言葉である「亀裂」を追う作業、それもいずれ「決定的」となる「亀裂」であったりする。本文において人文主義に基づく建築家と経験的技術による「プロト」のあいだに、ビンツェンツィオ・スカモッツィのような建築家とガリレオ・ガリレイのような科学者のあいだに、諸亀裂が章を追いながら明らかにされていく。K.マイケル・ヘイズならモダニズトとアバンギャルドのあいだに、ビアトリス・コロミーナならマルセル・デュシャンル・コルビュジエのあいだに、T.J.クラークならアバンギャルドボヘミアンのあいだに見出すであろう、「亀裂」であるかもしれない。
「亀裂」はまた構造に対するものでもあろう。それゆえ「都市環境(constructed environment)史を組織史や宗教史や感受性史の範疇におくとして、それを「構造」の原因・結果に帰す必要はないし、特定性を捨てる必要もない。反対に、われわれの作業は・・可能な限り・・先入見を消し、これまで学者達がそこに篭絡しがちであった息苦しく偏狭なゲットーから、建築と都市の歴史を解放することにある」(xi)。大雑把に言ってT.J.クラークやフレドリック・ジェイムソンやデニス・ホリアーらと同時代的なものを感じさせる。
いずれにせよその歴史について「われわれの観察点は出来事や時勢や感受性の交錯点におのずと置かれるべきである」(x)となる。こうした謂いは本文の結語近くの「だが歴史は(ルネサンスのような)再生の時を与えるのではなく、そうではなくゆっくりと動いていく過程、適応や、ニュアンスや逆戻りに満ちた領域、それに非・線形的な重合の様々なレベルを与える」(196頁)と呼応しているとも言える。さらにこれに続く結語は重厚なものである。
とはいえ手放しでは楽観的になれない。歴史がゲットーから解放されたとして、見ようによっては本書に書かれていることは高級な郷土史か、あるいは世界システム論の一部を切り取って拡大したようなものと読めなくもないからである。
いずれにせよその「脱構築」された都市環境・史は、1970年代以降の時代を画すものであるかもしれない。
全体は七つの章からなり、16-17世紀初頭におけるベネチアの歴史が「ルネサンス」という構造においてではなく、また「16世紀の諸出来事を「テクノロジーの時代」へ向かう確かでゆっくりした勝利の行進」と見ることにおいてでもなく「16世紀末から17世紀初頭におけるベネチアの特殊な状況において特殊な知にこれらがどれほど貢献し得たかを評価する」(138頁)ものとして、あるいは亀裂を追いつつ「ゆっくりと動いていく過程、適応や、ニュアンスや逆戻りに満ちた領域、それに非・線形的な重合の様々なレベルを与える」ものとして述べられる。
最初の方では彫刻家トゥッリオ・ロンバルディとサン・サルバドル教会改修計画について述べられ、内部におけるアルベルティ的改修にもかかわらず、ベネチアの外部環境にはほとんど影響を与えなかったことなどが言われる。
続いて建築家ジャコポ・サンソビーノやセバスチアーノ・セルリオらが当時のキリスト教組織のなかで検討される。
転回点をなすのは建築家アントニオ・スカルパニーニョである。スカルパニーニョによるスクォーラ・ディ・サンロッコの階段室改修は、感受性が変わりつつあることを示しているという。「サンソビーノであればこうした困難に対応し、たとえばパラッツォ・ドルフィンのように古代風(all`antica)の方法を緩和して用いただろう。しかしスカルパニーニョは腰を低くして妥協する必要がなかった。彼が受けた教育と感受性はパトロン層が経験的に持っていた趣味に完全に合うものだったのである。ベネチアの目利きサークルはスクォーラ・ディ・サンロッコを畸形的と看做したに違いない。スカルパニーニョは1549年に没した。1547年頃、ダニエル・バルバロはウィトルウィウス研究に着手している。この二つの年号は実に近く、文化的転回点を象徴的に示している」(96頁)といった感じである。
次章ではアンドレア・パラーディオがセルリオやバルバロらと対比的に捉えられる。パラーディオはサンソビーノのようなベネチアの「国家建築家」ではなく、その建築は外挿的なシミュラクルだっという。「16世紀後半においてパラーディオの多調的(polyphonic)「発明」によって獲得された調和(harmonia)は、シミュラクル(simulacro)に見えたかもしれない。つまり組織や個人がそこで生きるために摩擦を起こしている現実の外部にあるシミュレーションの結果として」「それは直接的現実と対比をなすバーチャル・リアリティを造ったのである。これはラグーンの文脈においてとりわけ明らかで、なぜならパラーディオの諸作品はその「異化」の力のおかげで生きたものとなっているからである。それと同時に、これら諸作品は人文主義の仮説の核を「絶対純粋(absolutely pure)」形態として保っている。パラーディオ建築における調和はそれゆえ現在の彼岸を超えて自らを投影し、さらに16世紀を超えてその意味の地平線を描き、ルネサンス時代とは「自己完結」と見るヴォルテールやルソーの時代まで議論を与えているのである」(128頁)。
さらにベネチア運河省におけるクリストフォロ・サバディーノとアルビセ・コルナーロの亀裂が瞥見される。簡単に述べるなら、経験技術に基づく技術者「プロト」でラグーンに軸足を置くサバディーノと、人文主義者で農業に軸足を置き、また大運河の入口に人文主義的な水上劇場建設案を提示する、コルナーロのあいだの亀裂であり、対比である。
最終章ではベネチアが衰退に向かう16世紀末から17世紀初頭にかけてが検討される。
むかし読んだフェルナン・ブローデルの本に、北海側のオランダはこの前後、ベネチア製品そっくりのものを低価格で市場に出し、ときにベネチア商船を襲撃するという手荒な方法を用いてベネチア商品を市場から駆逐していった、といったことが書かれていたように思う。世界システムの中心はベネチアからアムステルダムへと既に移りつつあったのである。
衰退の道を歩み始めたベネチアは外国からの移民に市民権を与える。そしてその多くはまさにベネチアの後を襲っていたオランダ人であったという。オランダだけでなく、台頭しつつあったイギリスとの関係もまたベネチアは模索する。ここにおいてベネチアを捨ててローマに向かったガリレオ・ガリレイの「文化マキャベリズム」が一瞥される。ガリレイと対をなすのはベネチア建築の完成者というべきか、そしていまや時代遅れと言うべきなのか人文主義の建築家、あのスカモッツィである。