本居宣長うひ山ふみ岩波書店、1934
本居宣長『玉くしげ、玉くしげ別刊、直毘霊(現代語訳)』多摩通信社、2007


建築に関係すると神道に遭遇する場面がある。まず地鎮祭である。注連縄と幣帛によって敷地の一角にヒモロギの空間をつくり、降神の儀ののち、建主、設計者、工事者がそれぞれ刈初、穿初、鍬入の儀を行い、最後は昇神の儀となる。いろいろな解釈があるだろうが、「しばらくこの土地を使わせてもらいます。よろしくお願いします」という、これは土地のカミへの御挨拶/アニミズムといったところだろうか。
また上棟式では大工が金槌を振り回して祝詞をぶつぶつ叫んだあと、関係者がそろって四方に塩や酒をまいていく。これはこれまでの無事に感謝し、残り工事の無事とのちの家内安全を祈願するといったところだろうか。
神道」は文字通りにはカミのミチである。ミチは「道」とか「美知」とも書かれるが、チ(路)に丁寧語の「ミ」がついてできたものという説があるそうだ。
国学入門書とされる本居宣長の『うひ山ふみ』はイロハの箇条形式で国学の基本知識と心得を述べていく形になっている。冒頭でまず、第一に「道」、第二に「二典」、第三に「六国史」と述べられる。二典は『古事記』『日本(書)紀』、六国史は『日本(書)紀』『続日本紀』、『日本後紀』、『続日本後紀』、『分徳実録』、『三代実録』である(儒学の「六経」を意識したのだろうか)。本居の反儒学の立場は一貫している。漢意はほとんど儒学/儒意と同意と言っていい。
「道を学ばんと心ざすともがらは、第一に漢意、儒意を、きよく濯ぎ去て、やまと魂をかたくすることを、要とすべし」(17-18頁)といった記述は、たとえば「そもそもむかしより、ただ学問とのみいえば、漢学のことなる故に、その学と分かむために皇国の事の学をば、和学或いは国学などといふならひなれども、そはいたくわろきいひざま也。みづからの国のことなれば、皇国の学をこそ、ただ学問とはいひて、漢学をこそ分て漢学といふべきことなれ」(21-22頁)といった記述等と関連付けられると、日本主義/愛国主義の表現にも見えるだろう。ヨーロッパ世界とほぼ並行的に近代的なナショナリズムが成立しつつあったことは興味深いことだが、しかしこうした謂いはまた方法論としてしても読める。つまり先行する神道家たちを批判しながら、「いささかも古ヘの意にかなへることなく、説くところ悉く皆儒道にて、ただ名のみぞ神道にて有ける。されば世の儒者などの、此の神道家の説を聞て、神道といふ物は、近き世に作れる事也として、いやしめわらふは、げにことわりなり」(27頁)。「まことの神道は、儒仏の教へなどとは、いたく趣の異なる物にして、さらに一致なることなし。すべて近世の神学家は、件のごとくなれば、かの漢学者流の中の、宋学といふに似て、いささかもわきめをふらず、ただ一すぢに道の事をのみ心がくれども、ひたすら漢流の理屈にのみからめられて、古の意をば、尋ねんとも思はず。其心を用いるところ、みな儒意なれば、深く入るほどいよいよ道の意には遠きなり」(27-28頁)と述べられるように、神道の方法論を建て直すには、神道家に浸透している儒意を切り分けていくことから始めよというわけである。原理主義ともとれるが、漢字伝来以前の「ミチ」を知るには、その漢字を用いながら、しかしその漢字の表記とは異なるものを読み取っていかねばならないともいえる。とりわけ漢字はシンボル的なアルファベットとは異なるイコン的な表記である。「物自体」を認識するのに「物の表象」を通らねばならないとすれば、あるいは「現実界」を認識するには象徴界のスクリーンが必要だとするなら、「(ネ)からぶみをもまじへよむべし、漢籍を見るも、学問のために益おほし。やまと魂だによく堅固まりて、動くことなければ、昼夜からぶみをのみよむといへども、かれに惑わさるるうれひなきなり」(42頁)となる。
(ラ)以降の後半部分はこのことに関連するかのように『万葉集』と「哥」へと焦点を移していく。「わが師大人の古学のをしえ、もっぱらここにあり」のわが師とは『万葉集』を研究した賀茂真淵を指していると思われるが、いずれにせよここでは「哥」こそが二典に継いで「道」を知るにふさわしいとされている。「哥」は反儒意としてわるわけである。それゆえ「(イ)長哥をもよむべし」となり、「(ク)物語ぶみどもをもつねに見るべし」となる。
さてこうしたことは最終的に「ミヤビ」へと向かっていく。「(ヤ)いにしへ人のミヤビ(風雅)のおもむきしるは云々、すべて人は、雅の趣をしらでは有るべからず。これをしらざるは、物のあはれをしらず、心なき人なり。かくてそのみやびの趣をしることは、哥をよみ、物語書などをよく見るにあり。然して古人のみやびたる情をしり、すべて古の雅たる世の有さまを、よくしるは、これ古の道をしるべき階梯なり」(68頁)。


18世紀末は異常気象が続いた時代だったのだろうか。1788年の冬はベネチアのラグーンが凍るほど気温が下がり、冷害による不作がフランス農民の不満爆発の引金となり、これがさらにフランス革命の引金になったと、むかし読んだジャン・スタロバンスキーの本には書いてあったように思う。年表を調べるとこの直前には日本の浅間山噴火を含む一連の噴火がある。日本ではこれらの噴火は天明の大飢饉を引き起こし、以降、幕末と呼ばれる時代へと滑り落ちていったと言える。国学はやがてその幕末思想の一端を担うようになっていく。この点で重農主義の屋台骨を揺さぶったのは異常気象という「外部からの一撃」だったとも言えるが、紀州藩の求めで書かれた治世書『玉くしげ』において本居は、「昔、下々の人民の納める物が今の年貢に比べれば非常にわずかであった時代ですら、今のように上の財政が逼迫なさることはなくて、人民をお救いになる方面も大いにゆきとどいていた。凶作の年であれば年貢をも、ある時は半分にお減らしになり、時には全部免除された事もあり、それらの諸問題の対策などもきちんと行われてうまくいっていたのである。それなのに今は、一時的に年貢を大幅に減免なさることもなく、全体の収入も昔の十倍になっているのに、それでもお金が足りないのは、全般的に物事の取り扱いがあまりに重々しく無益のことばかりになって、出費が多すぎるからではないだろうか」と述べ、むしろ長く続いた幕藩体制の官僚機構のあり方に批判的見解を述べている。
『玉くしげ』は治世の政経書とされるが、当時主流をなしていたであろう儒学儒学者への罵倒が、ここでもいたるところで炸裂する。本居、吠える。
『玉くしげ別刊』と『直毘霊』は本居の代表作のひとつ『古事記伝』の注釈である。冒頭ではイザナミイザナギ創世神話に先行する「ムスビ(産霊)の御霊」について述べられる。ここでは和語の「ムスビ」が「産」と明確にむすびつけられている。
「結」は「糸」に「吉」という構造になっているが、「結」も「産」も当て字かもしれない。英語の“tectonic”より和語の「ムスビ」の方が、実は重層的なのではなかろうか。