ジクムント・フロイト「快原理の彼岸」須藤訓任訳、『フロイト全集17』岩波書店、2006












cultural criticism関係の本を読んでいると”beyond the pleasure principle”という言葉にしばしばお目にかかる。そのまま読み流していてもいいのかもしれないが、これは後期フロイトの有名な論文の題名である。邦訳は昨年出ているのですね。エロスとタナトスの二項がと言われることがあるが、死の欲動は「自我欲動」と呼ばれ、フロイト自身は「タナトス」という言葉は使用していない。またフロイトらしく明確な結論は提示せず「われわれの科学的認識の遅さについて」、詩人の箴言の引用で終えている(引用文における跛行性の肯定は「快原理」についての考えを改訂したことにもおそらく関係している)。1920年、つまりヨーロッパに天地がひっくり返るような価値観の転倒をもたらした第一次(欧州)大戦の直後に書かれ、また「死の欲動」という概念自体この戦争に触発されたと言われることもあるが、「戦争神経症」という言葉が登場するのは一度だけで、それもすぐに外傷性神経症として論じられる。有名な「オーオーオーオ」の幼児の例は論文の始まりの方で導入として示され、IVの冒頭において「以下は思弁である」として「快原理」別名「涅槃原理」の彼岸がこののち考察されていく。この論文の主題の一つである欲動(drive)に「死の欲動」と「生の欲動」の二項の欲動があるのは、ユングの一元論とは大きく異なっている(「それ以来、かつ以上に鋭く二元論的になっている。それに対し、ユングのリビード理論は一元論的である。彼が自分の唯一的欲動力をリビードと呼んだために、混乱が生じずにはおかなかったが、われわれとしてはこれ以上、そのことに引きずりまわされるべきではない。自我のうちには、リビード的自己保存欲動以外の欲動も活動していると、われわれは推測している」(110頁。ちなみに「快原理」自体は死の欲動に関係しているとされる)。さらに「死」の概念自体、生物(科)学の知見を援用しながら、無機物/有機物、原生生物/高等生物の対比のなかで吟味されていき、また「自然死」とは「概念」であるという。
それでは「欲動(drive)」とはなにか。「欲動とは、より以前の状態を再興しようとする、生命ある有機体に内属する衝迫である。ただ、生命体はこの以前の状態を、障害を及ぼす外的力の影響のゆえに放棄せざるをえなかったのだ。欲動とは一種の有機的弾性である、ないしはこう言った方がよければ、有機的生命における慣性の表れなのである」(90頁)。
「したがって、有機体のあらゆる欲動は守旧的であり、歴史的に獲得されたものであって、退行を、つまり、以前のものの再興を目指すのだとすれば、有機体が進化してきた結果とは、妨害し逸脱させる外的影響のおかげだとしなければならない。初歩的生命体はその始めから変化を望まず、もし事情が同じなら、ただ同じ生の経歴を繰り返したことだろう。しかし、地球は進化し、太陽と地球の関係も進化する。結局のところ、この進化の歴史が有機体の進化のうちに刻印されて、われわれのもとにまで残されているに違いないのだ。有機体の守旧的欲動は、生の経歴に押し付けられたこの変更をことごとく受け入れ、反復すべく保存しておきながら、しかしまさにその結果として、それ自身が変化と進歩を追求する力であるかのような、人を欺く印象を与えずには済まなくなる。その実、欲動は以前からの目標を新旧のやり方で達成しようとしているだけなのである。あらゆる有機体が追求するこの最終目標についても、それが何であるかを言えないことはない。生命の目標がいまだかつて達成されたことのない状態であるならば、それは欲動の守旧的本性に矛盾することになろう。その目標はむしろ、生命あるものがかつていったん放棄したものの、あらゆる進化発展の迂路を経ながら帰り着こうとする昔の状態、生命の出発点である状態でなければならない。生命あるものはすべて内的根拠に従って死に、無機的なものに帰ってゆくということを、例外なき経験として仮定することが許されるなら、われわれは次のようにしか言いようがない。すなわち、あらゆる生命の目標は死であり、翻って言うなら、無生命が生命あるものより先に存在していたのだ、と。」(91-92頁)