鹿島茂「モードと建築-ベンヤミンに倣い」@東京都庭園美術館を拝聴する。


以下は個人による備忘録。
後期ベンヤミンの『パサージュ論』等による、19-20世紀初頭における建築とモードについてのレクチャー。
(資本主義とは)個人は目覚めていながら集団として夢を見ており、個人と集団が逆立した関係にあるとするベンヤミンの言説を手始めに、説明が続く。ベンヤミンのこの言説はK.マイケル・ヘイズビアトリス・コロミーナ他にもよく引用される一文である。
19世紀パリの駅舎は主要部分を鉄とガラスによる機能的構造体から造られながら、ファサードはボザール風となっていた(この現象はパサージュにも言える)。機能という衝拍を隠蔽する装飾的なこのファサードは、衝拍が大きくなればなるほど壮麗でバロック的なものとなっていき、1900年のオルセー駅ではファサードだけでなく側面までをもすっぽり覆うものとなっていった。この構造体と装飾的ファサードの関係は無意識とそれを抑圧する自我のようなものと捉えられる。
ベンヤミンがこれらの構造体に遭遇するのは20世紀に入ってしばらくしてであり、すでにこの「機能的な構造体」はかつての「機能」を失っており、むしろ往時の集団的無意識が窺える古拙的で不気味なものとなっていた。ベンヤミンがここで依拠するのはマルクスフロイトであり、またベンヤミンの言説とシュルレアリスムとの親近性が説かれる。かつての「機能的な構造体」はいまやシュルレアルな骨董品なのである(フロイトの部屋も骨董品だらけであった)。
「目覚め」と「夢」に関し、そのあわい、夢と目覚めのちょうど中間、目覚める前に目覚めた夢を見たものとして、アールヌーボーアールデコがあげられる。モードにおけるポール・ポワレとマリアノ・フォルチュニティはこの辺に位置づけられる(ガブリエル・シャネルはもう少しあと、あるいはもう目覚めているのだろうか?)。
さらにこの「目覚め」と「夢」がモードに引き寄せられて説明される。ある集団的な夢から目覚める契機となるのは、「トロイの木馬」あるいは「子供」であるという。夢をともに見続けていた「子供」があるとき、そこから目覚め、それまでかっこよいと思われていたものがダサいものに見え始め、新しいモードが始まる(モードはこの繰り返しということか?)。


優れたクリエーターはこうした「子供」をずっと持っている人ではないかという最後の言葉は印象的であった。
またちらっとmentelite(感受性)という言葉が登場したが、「感受性・史(the history of mentality)」はこのところときどききく。